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今年の夏はとても暑い by 小稲荷一照

作:小稲荷一照
分量:12枚  使用お題:蝉時雨を聞く、蚊取り線香、肝試し、汗を拭う、ゲリラ豪雨、暑さを凌ぐ、逃げ水を追い駆ける、ライフセーバーの肉体、二度目の水浴び、花火、川遊び、海底、溺死者、日焼け止めの匂い、夜祭に紛れる、向日葵(ひまわり)、麦わら帽子、親戚の家、熱に倦む、茄子のぬか漬け、旱(ひでり)星、お盆、夏星の国は遥かに、麦茶、帰省ラッシュ、打ち水をする


 今年の夏はとても暑い。
 毎年そう思って過ごしている。
 ちょっと早い休暇でお盆の帰省ラッシュをすり抜けて、本家に帰ってきたわけだが、都会より暑い気がする。
 あまりにも酷い陽気だ。
 川遊びでも海水浴でも水辺にそう遠くも歩かないから繰り出せばいいわけだが、潮風と砂と日焼け止めの匂いが楽しく感じられるのも二日三日で、もう結構という気分だった。
 夏の陽の熱に倦む、というよりも手持ちぶたさな感じもあまり楽しいものでない。
 暑さを凌ぐために家にいるときは水風呂と縁側を行ったり来たりしている。親戚の家だというのにだ。
 今この瞬間も額の汗を拭うが、汗を拭っているのか、風呂のはねた水を拭いているのか、判然としない。まだ昼食には早いというのに、本日既に二度目の水浴びだ。
 海底なら涼しいだろうか。と冷たく感じられない水に頭の先まで潜る。
 網戸の窓の向こうから蚊取り線香の香りがする。
 焦げたような埃っぽい風を感じた気がして、額に浮いている水滴を指ですくって舐めてみて汗かどうかを確かめる。汗なわけはない。
 この時期台風シーズンまでは快晴が続くことも珍しくないわけだが、そうは言ってもこの炎天下では雨ならなんでも、たとえ溺死者がでるほどのゲリラ豪雨でもこの際大歓迎だと思わずにはいられない。庭や畑に打ち水するほどの雨でも良い。蝉時雨を聞くくらいの気温に早くなってほしい。
 どうやってこのデカい家屋敷を維持しているのかしらないが、大叔父夫婦は狭くもない畑仕事に精を出している。もちろん納戸の整理や戻ってきた農具の掃除や片づけくらいは顎代替わりに手伝っているわけだが、いやまぁそれはさておき、暑い。
 と、渡り廊下をリズミカルな足音が響く。さて出るかと思った時には湯屋の戸が開け閉めされる気配が、そのまま遠慮なく夏星が風呂場に入ってきた。
「なんだ、朝からずっと入ってたの?」
「食事一緒に食べたろ」
 夏星はラッシュガードのまま手桶で組んだ水をアタマからかぶる。
 乱暴に飛沫が飛ぶ。
「おい、ナツヒ=サン」
「ハイ。詰めて詰めて」
 少し前に流行ったイントネーションで発した苦情を夏星は無視して、押しのけるように風呂に入ってきた。狭くない風呂桶だが、二人入るにはちょっと譲る必要がある。というか、男女で入るには微妙な大きさだ。
「ああ、もうオレ上がるから」
「そう?わるいねぇ」
 風呂から立ち上がり出るや、悪びれている様でもなく夏星はラッシュガードと水着を脱いで、風呂桶の中で濯ぎ出す。夏星の肩から胸脇腹のラインの筋肉のうねりは蠱惑的というよりは動物的で、年頃の女性の裸体というよりはライフセーバーの肉体という感じで、不思議なくらい自然に素通りできた。向こうも素っ裸のこっちを無視したのだからおあいこだ。と思ったところでふと寂しさが駆け抜けた。
 水で冷えたカラダに陰の差す縁側の夏の風はそこそこ心地よく感じられた。
 大叔父夫婦は畑から帰っていた。大きな麦わら帽子のツバが細い大叔父の体には不似合いですぐに分かる。
 茄子のぬか漬けをアテに麦茶を頂く。
「おちついたかい」
「おかげさまで。片付けあります?やりますよ」
 庭先の向日葵の産毛が白く輝いているような気がする。
「様子見に行っただけだから、とくにないよ」
 逃げ水を追い駆けるかのように庭先を飛び跳ねる犬を目で追って、思わず眇めたのに大叔父は苦笑しながら言った。
「今日は花火だから、明日は少しは曇ると思うよ」
 そんなに暑そうな顔をしていただろうか。
「——だいたい毎年花火の翌日は曇りなんだ」
 大叔父が言葉をつないだ。
「それは助かるなぁ」
 遠くかかる入道雲はかなたの方で雨を降らせているのだろうか。
「祭りってわけじゃないが、屋台も出てちょっとした縁日のようになるよ」
 雲が羨ましそうに見えたのだろうか。ぼんやりと陽炎に目をやっていると、慰めるように声がかかった。
「観光客も多いんでしょうね」
「海水浴のお客が多いから、花火だけってのはまぁそこそこかな」
 大叔父は少しばかり計るような声で言った。
「沢にゆこうぜぃ」
 夏星が妙なイントネーションで背後から声をかけてきた。
 声に振り向けば、淡い草色のワンピースを着て冷たく湿気った髪を軽く風に膨らませていた。微かに男物のシャンプーのミントの香りがする。風呂に乱入してきた時よりよほど色っぽい。
「もう昼だろ」
「おにぎり握った」
 思いつきにしても計画的らしい。
 大叔父は軽く笑って縁側から腰を上げる。
「具は?」
「シャケタラコウメコブ」
 妙なイントネーションで夏星が応える。
 準備万端ということらしい。
「わかったよ」
 沢というのは裏手を流れている川でたしかに沢だが、大きな岩をのぞかせた石がちのそれはちょっとした深さを持っている立派な淵で、海と違って果てなく泳ぐということは出来ないが、林を抜けた川風は熱を捨て清しい。
 夏星は川遊びに誘ったのかと思えば、荷物を持ったまま少し上流に向かい岩を伝い川を渡る。
 子供の頃は岩の感覚が広く、ちょっとした肝試しのような感じだった。
 川原の脇の林は家のあたりとは時間の流れが違うようで、蝉時雨がうるさい。
 対岸の岩陰の小さな菜園ではトマトとナスが夏の木漏れ日に輝くように実っていた。
 火星菜園と書かれた看板。ナツヒの名前の由来である和名夏日星、通称火星を家庭と掛けたものらしい。
「ややこしいセンスだな」
 足元にあまり大きくないスイカを見つけて慌てて避ける。
「なにが?」
「火星菜園。ってさ」
「父ちゃんの日照り干しってセンスよりはいいと思うよ」
 日照り干しは瓜の味噌漬けを干したもので塩っぱい干瓢のようなというか、つまりは味付きの干瓢で、このへんの新しい名産だ。
「旱星か。火星がよっぽど好きなんだな。おじさん」
「犬の名前がマルスにフォボスにダイモスだからね。ハイカラにもホドがあるよ」
 夏星は呆れたように口にしながら、小さな畑の手入れを始める。
「いつの間にこんなところに畑作ったんだ」
「だいぶ前からあるよ。少しづつ広げてったんだ」
 おもての畑から苗や土をちょろまかしてきて少しづつ領地を確保していったらしい。
「我が国土は実りに満ちておる」
 トマトの艶を褒めるようになで、夏星はその実を摘む。
「最初は自販機代わりに、なんか果物か野菜がほしいなぁと思ったんだ」
 摘みたてのトマトを沢の瀬で軽く濯ぎ、弁当を広げるながら夏星はそう言った。
「ウチに婿に来る気ある?」
 夏星は唐突に尋ねた。
 それは漬物の味を尋ねるような気楽な口調の問いだったが、深い川音を意識させる声でもあった。
「考えたこともなかった」
 口の中の握り飯を飲み込む間だけ考えてやっと出た答えは、正直な気持ちだったがつまらない言葉だった。
「考えられる?」
 夏星の問いはまぁそうだろうという顔つきだった。
「考えるのはもちろんいいけど、……結婚いつさ」
「アンタ、彼女とかいないの?」
 申し出に前向きな答えを返したはずだが、酷い言葉が問いかけられた。
「——まさか童貞?」
 怯んだところに畳み掛けられた。
「大事なところはそこか?いきなり話を振っておいて」
「ああ、ええとね。ウチもこの辺じゃ古い家だからさ、付き合いも色々あるのよ。何処と付き合うの付き合わないのって」
 夏星は親戚のはずだが、まるで遠い別の国の話をしているような気もする。
「で、あちこちから面倒臭げな見合いの話があるということか」
「どれも悪い話じゃないんだけどね」
 スジの良し悪しよりも関係がハッキリすることが面倒になることもある、ということらしい。
「付き合ってる男はいないのか」
「いるよ」
 あっさり答えられて、握り飯をかまずに飲んでしまう。
「でもまぁこの辺の男衆だからねぇ」
 夏星は寂しそうに言う。まさか身内にそういう話が出るような家であるとは思いもよらないわけだが、混ぜ返すような雰囲気でも気分でもなかった。
「子供出来ちゃってれば違ったかもだけど、そういう勢いもなかったしね」
「結婚しようって持ちかけた相手にする話じゃないよ。それ」
 常識的に夏星をたしなめるが、気分がわからないわけでもない。
「そういうわけだから、後で祭りに一緒に行こう」
 正直なところ夏星の言うことの流れの重要そうな点については半分も納得も理解も出来ないが、どうやらこの話がしたくてここまで連れ出したことは理解できた。
 夕刻海岸沿いの国道であった男は笑顔の爽やかな素朴な感じで夏星の好みがわかるような気もした。夏星の「こちらが許嫁。こちらが今彼」という紹介に困ったような顔を浮かべる彼が少し気の毒な感じもした。
 どのみち二人で話す機会も必要だろうと夜祭に紛れるのは、花火客で賑わう中ではそれほど難しくはなかった。
 結局そのあと夏星との結婚の話は帰るまで出なかった。
 あのときの夏星の国は遥かに遠く感じたわけだが、改めて火星菜園の世話をしている今年の夏はまた格別にとても暑い。エンドウ豆が元気よく伸びている。

水を撒く by 藤原湾

作:藤原湾 HP:蒼傘屋
分量:9枚  使用お題:ゲリラ豪雨、花火、帰省ラッシュ、お盆、麦茶、打ち水をする


 子供の声が聞こえる。
 隣家に帰省している孫達の声だろう。わたしは、思わず目をつぶった。
 八月も中旬に入った。いつもは年寄ばかりのこの村も、都会へ旅立った子供達がそのまた子供を連れて戻ってくる。ひと時の活気を得る。
 三軒並び、わたしの家を挟んで両側の遠戚という名の友人達も、それを出迎えるため、忙しそうだ。常日頃は細々と畑をやりつつ年金暮らしのわたし達。昼を過ぎると、わたしの家の縁側に集って他愛ない話に花を咲かせるというのに。
 面倒だの、何だのと言いつつ、帰省する子供家族を出迎え、半年ぶりの孫の顔を眺めるのが楽しみなのだろう。八月に入ってからは、顔が綻んでいるのが分かる。
 わたしはひとり、蝉時雨を聞きながら、縁側で目を閉じる。


 夏の暑さは、お盆の準備は、否応にも思い出させる。
 わたしにもまた、毎年出迎える家族がいた。
 夫を早くに亡くし、田舎の広いだけが取り柄の民家に、ひとりで住んでいても、さみしくなどなかった。
 夏になり、世間がお盆休みだと、帰省だと騒ぐ頃には、わたしの家も賑やかになったのだから。


 見るたびに大きくなる孫娘が嬉しそうに車から降りてくる。
「おばあちゃん!」
 駆け寄ってきては、にこにこと笑うのだ。
「いらっしゃい、また大きくなったねぇ」
 頭を撫ぜると、誇らしげに胸を張る。その姿が可愛らしい娘だった。脇に置いていた柄杓と桶を持ち上げると、不思議そうにそれを覗く。
「おばあちゃんは何をしていたの?」
「これは『打ち水』だよ」
 玄関先の砂利石が濡れているのを指さしてから、桶から柄杓で水を掬い、ぱっと撒いた。
「こうやって水を撒くとね、涼しく感じるんだよ」
 風を感じたのか、孫娘は笑う。
「ほんと! すずしくなるね」
 他にもお客さんをお迎えする時に、玄関を清めるという意味もあるんだよ、と教えると、分かったか分からなかったのか不思議そうにふーんと呟いている。
「じゃあ、おばあちゃんはあたし達にようこそってするためにも、水まいてたの?」
「そうだよ」
 何かを思いついたらしい顔で、笑いかけてくる。
「じゃあえんりょなく、おじゃましまーす」
 どこで覚えてくるのやら、玄関で慇懃にお辞儀をして敷居をまたぐ。孫娘はそうしてから、振り返ってまた笑っていた。


 そんな思い出も、遠い彼方のようだ。蝉時雨の声だけが、わたしの耳に響く。
 笑みに包まれた思い出は煙のように消え去り、代わりに思い出すのは。
 ブラウン管の昔ながらのテレビ。空撮された高速道路。画面端に書かれた「十二台玉突」の文字。
 思わず電話を取ったのを思い出す。
 もしや、まさか。
 事故について繰り返すアナウンサーの声はもう耳に入らなかった。
 息子の携帯電話は「電源が入っていないか電波の届かないところに……」とアナウンスを繰り返すだけだった。
 彼らが帰省するはずだった八月十三日は、誰も迎えないまま終わったのだ。


 あれから一年。
 またうだる暑さの夏が来ている。
 それでも迎える相手のいない玄関先に水を撒く気にもなれず、ただ縁側で蝉時雨を聞いていた。
 昔はよく降った夕立も、今は『ゲリラ豪雨』なんぞに出番を取られている。まだまだ寝苦しい夜が続くのだろう。
 わたしはそれでも動けなかった。
 あの子達を迎えるための打ち水を、あの笑顔が見れないのに撒く気にはなれなかった。


 ふと、目が覚める。そのまま転寝をしていたらしい。少し涼しげな風が風鈴を小さく揺らしていた。
「お邪魔してるわよ」
 声がして、ゆっくりと体をそちらに向かせる。左隣の友人だ。
「……孫が来てるんじゃないの」
「あまりに煩いから、避難してきたわ」
 わたしの頭を撫でる。まるで子供にするように。
「煩くしてごめんなさいね」
「——子供だもの。仕方ないわ」
「でも」
 そこで言葉が止まった。言いたいことは分かる。でも気を回してほしくなかった。思い出したくないそれを思い出させるのは。
 勢いをつけて起き上がる。彼女は「腰を痛めるわよ」と言う。
「麦茶、飲んでいく?」
「ええ頂くわ」
 台所へ抜けて、冷蔵庫からコップ二つと麦茶のペットボトルを出す。冷えたコップで入れると冷たさが保たれるような気がして。
 思わず笑ってしまう。もう必要ないのに、コップが四つ入っていることに。
 麦茶を注いでから、彼女に渡す。冷えたコップを当然のように受け取った。
「夜ね、うちの孫達が下の河川敷で花火をするのよ」
 彼女は麦茶で口を潤してから、呟いた。冗談ではない、そんな楽し気な場に出ていけるほど、わたしは強くない。
「——行かないわよ」
「私も行かないわよ」
「は?」
 耳を疑った。
「河川敷なんて、足場も悪いし、まっぴらごめん」
 コップの中の麦茶を飲み干して、コップを押し付けられる。
「あっちのばーさんも、避難したいって。娘が甘えてあれやこれやって言ってくるんだってさ」
 右隣の家を指さしてから、彼女は縁側から立ち上がった。
「だから三人で、今夜夕涼み会をしましょうよ」
 あぁ。
 分かってしまった。
 わたしがさみしいのを、分かられてしまった。苦しくて仕方がないのを、悟られてしまった。
 彼女達は何も言わない。そう、この一年何も言わなかった。
 ただ普通のように、常のように、わたしと共に居てくれたのだ。
「……大きなスイカが取れたの」
 わたしは呟いた。それから笑った。
「裏の井戸で冷やしておくわね」
 彼女も、嬉しそうに笑った。


 夕食の準備をするのだろう、いったん隣家へと帰って行った彼女の後姿を見ながら、わたしは立ち上がった。
 日が傾き少しは気温も落ち着いたのだろうが、まだまだ暑い。
 雨水を貯めた桶と柄杓を持ってきて、その水を玄関先に撒いた。
 わたしのために来てくれる大事な友人たちのために。
 わたしは人知れず、笑みを浮かべていた。

ナツとの遭遇 by sagitta

作:sagitta HP:ある日の空の顔。
分量:25枚  使用お題:蝉時雨を聞く、親戚の家、汗を拭う


1.
 ミーンミンミンミンミンミンッ、ミーーーンッ………ジーッジーッ……
 ツクツクボーシッ、ツクツクボーシッ……
 こまくと直接つながるうめこみ型スピーカーを通して、どう考えてもノイズにしか聞こえない不快な音が、僕の耳の中にひびきわたる。
「ちょっとSari! なんなのこの変な音?!」
 僕は、声に出さない思考通信で、体内接続中の『人格インターフェイス』に抗議する。
『ご指示のとおりにしただけですが』
 悪びれもしないすずしい機械音声で、人格インターフェイス、Sariが応える。……まぁ、Sariは機械だから、悪びれるなんてことはないんだけどさ。
「僕は、夏を感じさせてくれ、って言ったんだよ。なのになんなのこの雑音……」
『蝉しぐれです』
「えっ」
『蝉しぐれです』
 Sariがくり返す。どうやらさっきの雑音のことを言っているらしい。
『かつてシティにも生息していた、節足動物昆虫類の一種の鳴き声です。これらの種は、成体が夏にのみ活動して鳴き声を上げていたため、こうした音は『夏の風物詩』とされていました。当時の人々は、蝉しぐれを聞くことで夏を感じていたとされます』
 Sariが淡々と説明する。この雑音で「夏を感じる」だって? ……昔の人って、わけがわからない。
『立体映像を展開します』
 僕が納得しないことにしびれを切らしたのか(機械がしびれを切らすことなんて、あるとは思えないけれど)、Sariが出し抜けにそう言ったとたん、僕のまわりの風景が一変した。
 僕はまっしろなかべにかこまれた自分の部屋にいたはずなのに、いつの間にかそこは、林の中だった。Sariが、僕のもうまくにうめこまれたディスプレイに接続して、立体映像を展開したんだ。
 僕をとりかこむ背の高い木々。おいしげった葉っぱのすき間からさしこむきらきらした光は、太陽の光。いわゆる日光、というやつだ。そして、こまくに直接ひびく、蝉しぐれの音。
 Sariの誘導にしたがって僕が一本の木の幹に目をやると、視覚がズームモードに切り替わった。木の幹の一部がアップで映し出され、そこにへばりついていたきみょうな生きもののすがたが大写しになる。
「うへぇ」
 僕は思わず、悲鳴を上げていた。
 緑と黒のまだらもようの体。どう考えても大きすぎるすきとおった羽根。ロボットアームみたいな細長いたくさんのあし。そして、どこを見ているのかさっぱりわからない、宇宙人みたいな顔。
 節だらけのおなかを一生懸命にゆらしながら、僕の手のひらよりも小さい体からは考えられないほどの大音量で、ミーんミンミン……と、壊れたモーターのような声を上げている生きもの。
 ハッキリ言って、キモチワルイ。
「もういいよ、消して」
 僕がうんざりしながら言うと、周囲の林は一瞬にして消え去り、僕は元通り自分の部屋にいた。
『どうです、ソラ。夏を感じられましたか?』
「感じられるわけないよ!」
 無神経にたずねるSariに、僕はちょっとだけいらいらした声で(声といっても思考通信だけど)応えた。あんなのが夏だなんて、意味がわからない。
「とはいえ困ったなぁ……」
 僕は思わず口に出してつぶやいた。うちにいるのは僕だけだから、これは聞かせる相手もいない、独り言。
 どうして困ってるかというと、夏休みの宿題のせいだ。今年の夏休み、学校で出された宿題は一つだけ。
 それが、「夏を感じてくること」。
 ちょっと変わり者で知られる担任の先生は、「なかなかうまい宿題を出した」と思っているらしく、とくい顔だったけど、生徒たちはいっせいに困惑の顔を浮かべていた。
 僕たちは夏を知らない。夏が――季節がなくなってから生まれた世代だから。
『博士に、相談してみたらいかがですか?』
 Sariがそう提案してくる。
 そういえば先生も、お父さんやお母さんに聞いてごらん、って言ってたな。できればパパの力を借りずにやりたかったんだけど……しょうがないか。
「うん、そうする。Sari、パパに通信をつないで」
『承知しました』
 Sariが答えるのと同時に、僕の頭の中に小さなコール音が鳴りはじめる。
 研究者のパパは、いつだっていそがしい。パパが家で過ごすことなんて、一年に全部で10日あるかないかくらい。
 いつだってシティの中心にある研究所にこもって、朝から晩まで仕事、仕事、仕事だ。
 一度だけパパの職場を見学させてもらったことがあったけれど、パパは僕のことなんてそっちのけで仕事に夢中で、つかれきった僕が先にホテルにもどったことにも気づいていなかったくらいだ。
『ソラじゃないか、どうかしたのか?』
 かちゃ、という小さな音と同時にコール音がとぎれて、久しぶりに聞くパパの声が頭の奥に飛びこんでくる。同時に僕の網膜に映像が展開。目の前にパパのすがたが現れる。よれよれの白衣をきて、白髪がまじりはじめたボサボサのかみのけ。大きな目だけが子供みたいにキラキラと輝いている。
 いつもめちゃくちゃにいそがしいパパだけど、僕からのコールにはかならず出ることにしているんだって。僕にも「いつでも遠慮しないでコールしてきていい」と言ってくれてる。それが、パパが僕にした、たったひとつの約束。
 だから、会えないのがさびしいときも、まぁ、ないわけじゃないけど、がまんがまん。なんたってパパは、この都市でいちばんの天才研究者なんだから。
「パパ、夏休みの宿題について相談したいんだけど」
 僕がそう言うと、パパはうれしそうに大声を上げて笑った。
『夏休みの宿題か! ソラもそういうのをやる歳になったんだなぁ』
 「そういうのをやる歳」だなんて、パパったらすっとぼけてる。いつまでも僕が赤ちゃんだと思ってるんだ。僕が学校から宿題をもらってくるのなんて、もうずっと前からのことなのにさ。
『任せとけ! それで、どんな宿題なんだ?』
「夏を感じてくること、だって」
 僕が短く応えると、パパは驚いたように目を丸くして、それからにやり、と笑った。
『ほう……なかなか詩的な宿題だな。なるほど……なるほど』
 パパはその宿題が気に入ったらしい。なんだか満足そうにうんうん、とうなずいてる。パパも変わり者だから、きっと先生と気が合うんだな。
「何をしたらいいかな?」
 たずねた僕に、パパはとっておきのイタズラを教えるガキ大将みたいな顔になって、ニヤリと笑った。
『ぴったりの方法があるぞ。夏休みの間に、コータローのところに行ってくるといい』
 その言葉に、今度は僕が驚く番だった。
「えっ、コータローおじさんのところに?」
『ああ、パパから連絡しておくよ。行き方や必要なものは、あとでSariに伝えておくから。出発は……そうだな、明日の朝にでも』
「えっ、ちょっと待ってそんな、いきなり」
『そうかそうか~、うんうん、そろそろ行かせようと考えていたが、なるほど、なるほど、これは、ちょうどいいタイミングだな!』
 戸惑う僕のことなんて目に入らないかのように、パパはひとりで納得して何度もうなずいている。こうなっちゃうと、パパは人の話なんて聞きやしないんだ。
『細かいことはSariに聞くといい。Sari、ソラを頼んだぞ』
『ええ、お任せください、博士』
 パパに声をかけられて、Sariがうれしそうに応える。機械の声に感情なんてないはずだから、もしかしたら僕の気のせいかもしれないんだけど……パパと話すときのSariの声は、たしかにうれしそうに聞こえるんだ。それもそのはず――パパは、Sariの生みの親だから。
 今じゃ人口の80%以上が自分用を持っているとまで言われる、人格インターフェイス『Sari』は、僕のパパ、ソウタ博士の発明品だ。「Sari」という名前はなんちゃらかんちゃらインターフェイスの頭文字をつなげたもの――と、公式発表によればそう説明されているけど、実際はそれが病気で死んじゃった僕のお母さん――つまり、 パパの奥さんの名前からつけられた名前だってことは、パパの知り合いならみんな知ってる。
『じゃあな、ソラ。健闘を祈る!』
「ちょっ……」
 そう言ってパパは、僕が止めるのもおかまいなしに一方的にコールを切った。きっと今頃もう、パパの頭の中は次の仕事でいっぱいのはずだから、もう一度かけ直すのも気が引ける。僕はあきらめて、ため息をついた。
「もう……あいかわらず強引なんだから」
『さっそく、出かける準備をしましょう。ほら、博士から持っていくものリストが送信されてきましたよ』
 Sariの声が、心なしかはずんでるみたい。まったく、こういうところはパパにそっくりなんだから……。
 そんなふうに思ってからふと、僕はある事実に思い当たる。そっか。僕とSariは兄弟みたいなものなんだな。生まれたのは僕の方が先だから、僕がSariのお兄さんだ。
 そう思うとちょっとだけ気分がよくなって、僕はむねをはってSariに命令した。
「赤いぼうしを用意して、Sari。あれを持っていこう」
『博士に買ってもらったぼうしですね。承知しました、ソラ』

2.
 我々が季節と気候とを失ったのは、前世紀の終わり頃。
 惑星規模の気候変動と、多重の要因による異常気象の連続、そして深刻な大気の汚染により生存に適さなくなりつつあったこの星で、快適に暮らし続けるため、我々人類は大きな決断をした。
 それが、都市ドーム化計画、通称『エデンプロジェクト』である。これにより、我が国の人口の80%が居住するシティはすべて巨大なドームに覆われ、内部環境は完全にコントロールされることになった。これにより我々は、祖先たちの永年の悲願であった、「天候や災害からの解放」を果たしたのである……。

 僕がエアスクーターにまたがって、リニアメトロのステーションに向かうあいだ、Sariが僕の頭の中で、『シティの歴史概説』を読み上げる。このシティができたとき――つまり僕が生まれる前のことだけど――につくられた宣言で、僕らも学校で何度も聞かされた内容だ。……とはいえ、それがどういうことを言っているのか、実はあんまりよくわかってない。僕が生まれ育ったシティには、はじめっから「季節」とか「気候」なんていうものはなかったんだから、それがなんなのか、僕たちが実感するのは難しい。
「先生が言ってた『夏』っていうのは、『季節』のひとつ、なんだよね?」
『ええ。ちょうど今の時期、つまりカレンダーでいう8月ごろは、「夏」という季節に当たっていました』
 僕が確認すると、すぐにSariが応える。
「夏っていうのはたしか……太陽が出ている時間が長くて、植物がよく育って……あと、なんだっけ?」
『気温と湿度が高い。つまり、「むし暑い」、です』
 そうそうそれだ。たしかに授業で習った記憶がある。でも、むし暑いって……いったいどんな感覚なんだろう?
 自動操縦のエアスクーターで道を進みながら、僕はふと、真上を見上げてみた。シティをつつむドーム、その天井の内側には最新式のディスプレイがとりつけられ、真っ青な空と、ところどころにうかぶ白い雲を映し出している。この天井の向こうには、本当の「空」が広がっているらしい。僕の名前の、元にもなった「空」。
『ソラ、そろそろ終点につきます』
 Sariの声で、僕ははっと顔を上げた。シティの中を縦横無尽に走るリニアメトロの、その終点ステーションまで来たのは、生まれて初めてだった。僕だけじゃない。きっとスクールのクラスメイトたちだってたぶんだれひとり、ここまで来たことはないだろう。
 うす暗い終着駅にぽつん、とかがやく電光掲示板に示された文字は、「シティ出口」。シンプルすぎる駅名。だれもいない駅。いつもたくさんの人でにぎわっているシティ中心部のステーションとは大違いだ。
 車両が停止すると、すっと、音もなくリニアメトロの扉が開いた。
『どうしました? 降りますよ、ソラ』
 なかなか動けずにいる僕に、Sariが心配したような声をかけてくる。
「わかってるよ」
 僕はつばをのみこんで、ゆっくりと立ち上がった。背中にしょったリュックサックが肩に食い込んでずっしりと重い。こんなにたくさんの荷物を持ったのだって、はじめてかもしれない。
 僕はリニアメトロを降りて、ステーションのホームに降り立った。
 ブッブッ。
 背中の方から聞きなれない音が聞こえてきて、僕はふり返った。
 ホームを出たところに、旧式のでかい自動操縦のジープが一台とまっていて、どうやら僕を待っていたみたいだった。
「オマチシテオリマシタ、ソラ。サア、オノリクダサイ」
 ジープから、旧式感丸出しの平板な機械音声がする。
『コータロー博士からのお迎えのようです』
 Sariに言われるまでもなく、そんなことはわかってる。イマドキこんな古い車を使ってるなんて、きっと、おじさんしかいないに決まってるもん。
 僕はかくごを決めて、座り心地の悪いジープの座席に乗り込んだ。僕が乗ると、ジープの扉がバタンッと音を立てて閉まった。
「オツカマリクダサイ」
 そう言ってジープは走り出した。ガタガタという振動が座席に伝わって、しっかりとつかまってないとおっこちてしまいそうだ。
「コータローおじさんに会うのは、すっごく久しぶりだよね」
『はい、記録によれば、1823日ぶりです』
 僕の独り言に、Sariが細かくこたえる。1823日だなんて、思い出すこともできないほど遠い昔。前にコータローおじさんが来たときには僕はまだ全然子どもだったから、おじさんのことはほとんど覚えてない。それに、前はおじさんがシティに来たんだ。だから、おじさんがふだん住んでいるところに行くのは、これがはじめてだった。
 そう、おじさんは、シティの外に住んでいる。
 人口の90%以上がシティに住んでいるんだから、これは特別なことだ。
 コータローおじさんは、お母さんの弟でパパと同じく研究者だ。だけど、コータローおじさんとパパは全然ちがう。おじさんは「生物学者」なんだ。地球に残された生きものを研究するために、わざわざシティの外にある「特別保護区」にいるんだ。
『シティを出ます』
 頭の中にひびいた、Sariの声。なんとなく緊張しているように聞こえたのは、気のせいだろうか。考えてみれば、僕専用のSariは生まれたときから僕といっしょなんだから、Sariだってシティから出るのははじめてなんだ。
 僕だけを乗せた旧式のジープは、ガタガタと音をさせながら進み、シティの出口へと僕を運んでいく。目の前に見えていた銀色の扉が、静かにスライドした。
 強い光が飛び込んできて、僕は思わず目を閉じた。
 この先にあるのは、まだ見ぬ外。「夏」の世界だ。

3.
 ミーンミンミンミンミンミンッ、ミーーーンッ………ジーッジーッ……
 耳をつんざくようなその音が、「蝉しぐれ」だということに気がつくまでに、しばらく時間がかかった。それはSariが聞かせてくれた録音とは全然ちがっていて、なんだかむねにせまる必死さと激しさをもっていた。まさに、生きものの声、という感じ。
 ジープが停止して、僕たちが降り立ったところは、かつて立体映像で見たような、背の高い木々におおわれた森だった。僕はすっかりと体中をせみの声につつまれていた。真上からはまぶしい太陽の光がふりそそいで、僕の体に照りつけていた。
 そしてなにより――
「いったいなんなの! 空気がぬるっとしているし、なんだか体全体が熱があるみたいにぼうっとする。それに、体から汗があとからあとから出てくるよ……」
『気温32度、湿度75パーセント。これが、『蒸し暑い』というものですね』
 生まれてはじめて「汗を拭う」ということをしながら悲鳴を上げる僕と、すずしい声で説明するSari。そりゃ、Sariは体がないから、この「蒸し暑さ」もわからないだろうけどさ。まさか、「蒸し暑い」ってのがこんなに苦しくて、不快なものだとは知らなかった。
「あっ、もうダメだ、目が回る……」
 顔がぐわーっと熱くなって、世界がぐるぐる回りはじめた。視界がどんどん暗くなっていく。
『ソラ、大丈夫ですか? 意識レベルが低下しています、このままでは……』
 心配するSariの声を耳の奥で聞きながら、僕の意識は、遠のいていった。

*  *  *  *  *

 ぼんやりとした意識のなかで、僕はぬくもりを感じていた。だれかが僕の頭をやさしくつつみこんでゆっくりとなでてくれるのを感じる。
 あ、これは、お母さんだ。僕が5歳のときに、病気で死んじゃったお母さん。とてもやさしくて、あったかい人だった。ひざの上に僕を乗せて、よくお話をしてくれたんだ。お母さんが小さいころの話。まだ、シティがドームにおおわれていなかったころの話。生きものが好きで、弟といっしょに森の中でかけまわって生きものをつかまえていた話。
 久しぶりにぬくもりにつつまれて、僕はしあわせな気持ちでそれに体をゆだねた。
 不意に、僕のくちびるに、やわらかくてちょっとあたたかい感触がした。
 どこかから声がする。やさしい声。お母さんの声?

「……じょうぶ?」
 その声に応えるように、僕はゆっくりと目を開いた。
 目の前に、心配そうな女の子の顔。
「だ、だれっ?!」
 僕はびっくりして、急いで体を起こした。僕の頭にあったぬくもりがふっと消える。ん? ぬくもり? 今の今まで自分の頭があったところに目をやると、僕の顔は一気に熱くなった。なんと、僕は知らないうちに、女の子にひざまくらされてねていたらしい! それに、まだくちびるに残るやわらかい感触――。
「もう大丈夫そうで、よかった。水を飲ませといたけど、もっと飲んだ方がいいよ」
 あわてふためく僕と対称的に、女の子がおだやかに笑って、水筒に入った水を差し出してくる。歳は僕と同じか、少し年下くらい。肩までのばした真っ黒なかみの毛と、チョコレートみたいな色の顔。顔だけじゃない、白いノースリーブシャツからむき出しになったうでも、ジーンズ生地の短パンからのぞくふとももも、みんなチョコレート色だ。「夏には、みんな日焼けして、真っ黒だった」。そんなお母さんの昔話を、ふと思い出す。
「えっと、僕は……どうしたんだっけ?」
『突然の蒸し暑さに体がついていかず、意識を失っていたようです。今は血圧、体温など正常にもどっていますが……あれ? また脈拍が少々上昇しています。これは……』
「あー! あー! それはいいの! ちょっとだまってて!」
 僕はあわててSariの言葉をさえぎった。
「どうかした?」
 女の子が、ふしぎそうに首をかしげてこっちを見つめてくるから、僕の心臓がまたどくん、と音を立てた。
『ソラ、脈拍の上昇が――』
 頭の中で告げてくるSariの言葉を無視して、僕は女の子にむきなおった。
「えっと、そ、その、助けてくれたんだね、ありがとう」
「ううん」
 僕が言うと、女の子はふんわりと笑って、首を横にふった。
「僕は、ソラ、っていうんだ。えっと、君は?」
「――ナツ」
 女の子が、僕の目をまっすぐに見つめたまま答える。
 それでようやく僕は思い出した。コータローおじさんに、娘がいること。僕のお母さんが頼まれて、夏生まれのその子に「ナツ」と名づけたこと。
「ソラ、あたしの友達になってよ」
 ナツが、チョコレート色の手を僕に差し出してくる。
「あたしが夏のいいところ、たくさん教えてあげる」
 意を決して手を取った僕に、ナツがいたずらっぽく笑いかける。
『楽しみですね、ソラ』
 Sariもそんなことを言う。
 ふと、風がふいた。葉っぱと葉っぱがこすれ合って、ささやきのような音を立てる。葉っぱのすき間からは細かくなった太陽の光――そう、たしかこれは「こもれび」っていうんだ――がふりそそいで、僕らを照らしていた。木々にさえぎられたこもれびには、僕を責め立てるような熱さはもうなくなっていて、それにほてった体をくすぐる風が心地よくて、僕は少しだけ夏が好きになれそうな気もちになってきていた。
 いつの間にか、ノイズみたいだったせみの声が、心地よいBGMに変わっていた。僕はナツに手を引かれたまま、森の中を歩きはじめた。靴底に感じる、土の感触。てのひらに伝わる、汗ばんだぬくもり。
 僕の今年の夏は、まだまだ暑くなりそうだった。

逃げ水様 by ぷよ夫

作:ぷよ夫
分量:30枚  使用お題:茄子のぬか漬け、逃げ水を追いかける、お盆、麦茶


I 【不思議な水】
 首都圏の縁からちょっと離れたところにある、絶賛過疎化進行中の農村の、そのまた奥地に掘っ立て小屋、もとい某水質研究所の第七支部が建っていた。略して七水研。
 ほぼ自然のまま流れる清流がすぐ脇に流れており、主な役割といえばその清流の水質管理や、周囲の山に対する土砂崩れなどの監視だ。雨の多い磁気でもなければ暇なことが多い。
 建屋と砂利引きの駐車場までは、細いが綺麗な舗装路が残っている。元々広くて立派な道路が通ってた形跡があるが、今は必要なだけ再整備されていた。
 ここから先は道の状態が悪く、徒歩か特殊な乗り物でないと厳しい。

 お盆休み前の、とある夏の日のことである。
 七水研の事務室権研究室で、ちょっとした騒動が起きていた。
 いつもどおり水質調査のためにポリタンクに入れて水源から汲んで来た水を、検査のため抜き取ろう蓋を開けたところ、ぼしゃっという音ともに一部が飛び出してしまった。
 床にちょっとした水溜りが出来る。
「山城ぉ、なにやってんだよ」
 見ていた所長の霧島が、新人の山城に半分笑いながら注意した。
「さーせん、所長。あれぇ、普通に開けただけなんだけどな」
「たまにそういうこともあるさ。はい、雑巾」
「あ、どうも、望月さん」
 七水研の紅一点、四捨五入して一応二十歳に留まる望月が、雑巾を持ってきた。
「さっさと片付けます、ってあれ?」
 山城がこぼれた水を雑巾でふこうとした、いや確実にふいたつもりだったのだが、なぜか雑巾は全くぬれていなかった。
 かわりに、こぼれた水の位置が雑巾一つ分ずれている。
「なにこれ?」
 望月もふいてみる。
 同じことがおきた。ふこうと手を出すごとに、こぼれた水が移動する。
「そんなに雑巾が嫌いなのか」
 さっと手を出すとやっぱり動かれた、いや逃げられた。
「アホかっ。そ、れっ!」
 望月が空いた左手でフェイントをかけつつ右手の雑巾を叩きつける。が、両方よけられた。
「いわゆる逃げ水、ってやつかね」
 霧島がのっそりよってくる。
「所長、日本語が変っすよ」
「ばーか、ばーか、逃げ水のばーか」
 山城を無視して霧島が水溜りに罵声を浴びせる。
「ナニやってますか? まるでアホですわ」
「いや、アホはこの水だ。罵声に反応しないとなると、特に知能はない」
 霧島が妙に冷静に言いつつ、ドライヤーを水溜りに突きつけた。
 ささっと、水溜りがスライム状に盛り上がって、すすっと部屋の隅っこに移動した。
「なんだ、賢そうじゃないですか」
「いや、アホだよ。コンセント入ってないんだが」
 ぷらぷらとドライヤーのプラグを霧島が山城たちに見せる。
「望月君、とりあえず物置からタライを持って来てくれんか? あと、フラスコも」
「それなら僕が持ってきます」

 かくして、部屋の一角に大きなタライと、その真ん中に大きなフラスコが置かれた。
 そして、霧島たち三人で、雑巾を持ってこの奇妙な水溜りを取り囲んだ。
 静まる一呼吸。
「せーの、いちに、いちに!」
 霧島の掛け声とともに、同時に床を雑巾でこすりはじめた。
 水溜りは雑巾に触れないように、右へ左へと避けていく。だが、徐々に追込むように範囲を狭められ、致し方ないとばかりにタライの中に入り込んだ。
 だが器用にもフラスコを避けてドーナツ状になっている。
「あのフラスコに入る量ですが、どうやって突っ込むんすかね」
「まあ、見てろ」
 霧島はタライの回りに新聞紙を敷き詰め、最後の一枚を広げて手に持った。
「いーちにーの、さん!」
 ばさり。
 逃げ場を失い、新聞紙に吸われるかと思いきや――霧島の策略どおりに、ずるっとよじ登ってフラスコに飛び込んでしまった。
 すかさず霧島が、覆いかぶさった新聞紙を、フラスコにぎゅぎゅっと詰め込んで栓にした。
「はい、確保!」
 謎の水溜りは、こうしてフラスコ水になったが、一つ普通の水と明らかに違うところがあった。
 フラスコ内の中空に、球体になって浮いていたのだ。

「所長、確保はしましたが、どうします?」
 山城がフラスコをつつきながら言った。浮いてるくせに、中の水がプルプル震える。
「さしあたり、凍らせてみっか。望月、冷凍庫にしまっといてくれ」
 霧島が余った新聞紙をむしりとり、残ったぶんを押し込むと、上からキッチリとゴム栓して望月に渡した。
「はーい」
 ――数分後。
 望月が、凍ったアユやヤマメ、イワナなどをタライに積み上げて戻ってきた。
「誰ですか、勝手に私物を入れたのは。フラスコを仕舞うのに苦労しましたよ:
「あ、全部俺だわ」
 望月のクレームに、霧島が少し顔を引きつらせて答えた。
「もう、釣ってくるのは良いですけど、ここで冷凍しないでください!」
「すまん、すまん」
「それじゃ所長、アレが凍るまでみんなで焼いて食いましょう!」
 旨そうな川魚を山城が塩焼きにしようと企む。
 だが「だめだ」と霧島が却下した。
「良いじゃないっすか、忘れてたんすよね?」
「ああ、忘れてたとも。それ、全部一昨年から入れっぱなしだ。もう食えんよ」
「なーんだ。じゃ、その辺に僕が埋めてきます」
「嗅ぎ付けて、クマでも出たら困るではないかぁ」
 がおっ、とばかりに望月がクマのまねをする。
「この時期にでませんって」
 と、山城はスコップを取りに物置に向かった。

 無駄になった魚を土に返すのに約一時間。
 戻ってきて、そろそろ凍ったかなと、山城は冷凍庫からフラスコを取り出した。
「はぁ」
 ため息とともに、本日何度目かの奇妙な光景を目にする。
 フラスコの中身は、気泡が入ったゼリーのように内部に空洞を作り、表面だけ薄く凍結していた。ちょうど空洞の分だけ膨らんだように見える。
 周りからつついてみると、内部の空洞がプルプルと震えた。
「真空断熱、かな」
 望月がさっきより少し内側に移動した新聞紙の詰め物を指して言った。
「気化熱で表面だけ凍った他は、液体のまんま、ってことか。よくまあ、被害を最小限に留めたもんだね。なかなか高度な知性を持っているようだ」
 と、霧島が苦笑しながらフラスコの中身に見入った。
「さっきと、言ってることが違うじゃないっすか:
「知性があるのとアホなのは違う」
「そういう問題かなぁ。じゃあ、これ試してみない?」
 望月が、小さなフラスコを持ってきて、蓋をはずすと同時に、フラスコの口どおしをくっつけた。
 そのまま、バシャバシャとシェイク――すると、うまいこと一部が小さなフラスコに移った。
「それ、赤外線レーザー分光器に入るか?」
 霧島は、最近本部からふんだくるように仕入れてきた、最新式の赤外線分光器をさして言った。赤外線の吸収スペクトルから成分を分析する装置の、最新機種だった。
「入ると思いますけど、うまくいくかなあ」
 望月は、うまく出ても結果は「ただの水」じゃないかと半信半疑のまま、装置の蓋を開けて中の水玉がレーザーに当たる位置にフラスコをセットした。
「測定開始」
 蓋を閉め、開始スイッチを押す。
「そんなのありか」
 直後、中をのぞいていた山城が素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたのよ、って、えー!?」
「馬鹿馬鹿しいくらいに予想通りの動きをしやがったな」
 霧島、望月とも驚き、あきれた。
 丁度レーザーをよけるように、ドーナツ状になっていたのだ。
「今日はこの辺でおしまいにしていいっすかね」
「ああ。いつもの水質検査をやらないと、本部にどやされる」
 霧島はあきらめ半分にこの日の実験をとりやめた。

II 【逃げ水様】
 夕方、仕事を終えた霧島たち三人は、里の村の数少ない飲食店である、小さな蕎麦屋に晩飯を食いに出た。
「あいよ、ビールとおコウコ先に置いとくよ」
 店のオカミサンが瓶ビールと、おつまみ代わりに茄子のぬか漬けを先に出した。おコウコとは、この辺りの言葉で御新香のことだ。
「しかし、水って普通はこうだよな」
 飲めない山城がコップの麦茶を見ながら言った。飲めないついでに運転担当。
「だね。逃げ水って言ったら、普通はあれだわ」
 丁度店のテレビで夏らしい場面が映されていた。からっと熱そうな道路に、逃げていく影。
「まったく、おかげで俺まで残業だ」
 霧島がぼやきつつ、コップにビールを注いだ。
「じゃ、今日はご苦労さん」
 かつん。麦茶と麦酒でとりあえず乾杯だ。
 疲れている成果、山城にはただの麦茶が妙に旨く感じた。
 いや、旨いのはそれだけではなかった。
「お、この茄子!」
 山城が爪楊枝で一切れぷすり。ただの茄子のはずなのに、驚くほど旨かった。
 残る二人も口にして、味の良さに思わず笑みが浮かんだ。
「この茄子が、ぅんめえの分かったけ?」
 オカミサンがうれしそうにもう一皿、茄子のぬか漬けをもってきた。
「ええと、普通の茄子っすよね?」
「んだ。ここらの畑で取れた、普通の茄子だ。アタシが毎年こしらえてる、毎年おンなしおコウコだ」
「毎年、この味なんですか……」
 山城が茄子を眺めながら言った。
「そらま、一本ごとにちこっとは違うけンど、おんなじだぁよ」
「そうそう、毎年美味しい茄子だよな」
 オカミサンの言葉に、霧島が相槌をうつ。
「ああ、山城君は今年赴任してきたばかりだったわね」
 と、言いながら、望月は茄子をもう一切れ口に放り込んだ。
「家ごとにキャラが違うけど、この辺りじゃどこでも漬物のクォリティは高いわ。その代わり、スーパーに市販の漬物を置いても全然売れないのよ」
「分かる気がします」
 山城は、スーパーやコンビにで売っているものは、好みや良し悪し以前に“別物”だと思った。そして、都会育ちの彼は、そんな市販の漬物しか食べたことが無かった。
 そして「あの水も、別物か」と、呟く。
「どうした、山城」
「あの水のことっすよ。水は水でも別物と思ったんで」
「どう考えても別物だろうな」
「おっ、さすがでねえか。水の仕事してるだけあんなぁ。ほれ、ザル蕎麦みっつ」
 ちょうどそこに、店の主人が蕎麦を茹で上げて持ってきた。
「ここらは水がええからな、茄子も蕎麦も旨ぇだよ。米もええからよ、ぬが漬けのぬがもええ」
 この辺りの水は名水だ。だからこそ七水研が設置されている。
 山城はいまさらのように気がついたが、このあたりで食べるものは何でも旨い。水が旨いから何でも旨い。
 だが、これと例の水とは別件た。
「ところでご主人、この辺りで“変わった水”の話とかご存知ないでしょうか」
 ここぞとばかりに、ぱちんと割り箸を二分割しながら霧島が尋ねた。
「酒の肴になりそうな面白いのを、ね」と、望月。
「変わった水け……カァちゃん、何かあっかな」
「な~んだっけかな、婆さんから聞いた気がするんだけどよ」
 オカミサンが蕎麦湯を要しながら首をかしげた。
「ほだったら、ぬんげむずさまのハナスがあっと」
 店の一角から強烈に訛った爺様の声がした。先に来て天ぷら蕎麦をすすっていたお客だった。
「ぬ、ぬんげむずさま?」
 山城は、爺様の言葉を何とかまねしてみた。書き出してみる「ぬんげむずさま」になりそうだが、実際の音はかなりかけ離れている、
「ははっ、“にげみず様”だぁよ。他所の人にはわかんねえべな」
 オカミサンが笑いながら言った。
「逃げ水!?」
 そこに三人が同時に聞き返す。
「んだ、そこらの逃げ水と違うど。おっかけてくと、逃げるんだわ」
 と、爺様。
「もしかして、雑巾でふこうとすると、さっと避けるとか?」
 望月が恐る恐る訊いてみた。
「んだ、よぐ知ってんなゃ。見たんけ?」と爺様。
 霧島は持ってきていた小さいほうのフラスコを出して見せた。
「ほら、このとおり」
「あんれま!」
 客の爺様と蕎麦屋の二人がこれでもかとばかりに目を丸くして驚いた。
「逃げ水様、つかめーちまっただか!?」訛りを抑え気味に爺様が驚く。
「捕まえたといいますか」
 山城がフラスコをつつきながら今までの経緯を説明した。つつくことに、逃げ水様とやらがぷるぷる震える。
「なんだかよ、それさ聞いてると、逃げ水様のほうから人間に会いに来たみてえだな」
 蕎麦屋の主人もフラスコをつついてみた。
「だどすっとよ、山でなんだかさ、あったんでねえがな?」
「んー……特に」
 爺様に聞かれ、水を汲みに言った本人の山城が答えた。
「逃げ水様はあ、何かあると逃げてくるんだどよ。そんでな……」
 爺様が言うには、水源や近くの山に何かがあると、逃げ水様が現れて教えてくれるということらしい。昔――爺様の、そのまた爺様が子供の頃は、水源近くにあるホコラまで村中みんなで上り、毎年この時期になると、逃げ水様がどこかに逃げてしまわないように、お祭りを開いていたらしい。
 今では誰も近づかなくなってしまったが。
「一応、明日水源の辺りを調べてみるか。二人とも、動ける服装で来てくれ」
 霧島が二人に指示する。水源により近づくには山道を徒歩で行かねばならない。
「ホコラは、湧き水に近くだつぅかっらよ、見つけたら拝んでこいな」
 爺様が山のほうをさす。その返す手でテーブルをさした。
「でな、蕎麦伸びっちまぁど」

III 【水源の先】
 翌日、蕎麦屋に行った三人組は、キャンプに行くような姿で七水研に現れ、先に伸びた「舗装道路の跡地」になってしまった山道を登り始めた。
 ちょっとした計測をするための商売道具と、逃げ水様の欠片を入れたフラスコなどを、リュックサックに小分けして、三人で背負っている。
「所長は、この先行ったことあるんすか?」
「何度か行ったが、一時間も行かずに戻ってきた。一応歩ける山道が延々続いていて、杉が多目の雑木林に囲まれてるだけだからな。ま、季節ごとの花や、紅葉とかを見に行っただけだよ」
 喋りながら、三人はざくざくと音を立てて上っていた。
 足元は半ば風化した舗装路で、その上に落ち葉や木の根っこなどが散在しており、何処まで道路で山の一部なのか入り混じってよく分からない。
「この道って、何だったんでしょうね。検索しても、七水研の前に通じてることしかわからないっす」
 ただ、これがかつて広くて立派な道路として整備されていたらしいことは確かだ。
 だとすると、七水研は、この道路のほんの途中にしか過ぎない。
「お祭りのために作った道だったのかな」
 そんなことを考えながら山城は山道を登り続けた。
「ところで、所長はホコラの場所が分かるのですか」
 ふと、望月が訊いた。
「湧き水までは何度か行きましたが、何も無かったようでしたので」
「実は、俺もホコラなんて見たことがない。水源の湧き水までは何度も行ってるが、回りを探検するってことは無かったんでね」
 そして、七水研から二十分ばかり歩いたところに分かれ道があり、細いほうの先に水源の湧き水があった。
 七水研で道と湧き水の周りを草刈など手入れをしているが、周囲は基本的に雑木林であり、下草がぼさぼさと生えている。
「いつもどおりっすね」
 洞穴と泉とアイノコみたいな傾斜の穴から、澄んで冷たい水が、とめどなく湧き出していた。
 その水は川になって、七水研の横を通って里へ流れていく。
「手分けして探すとしよう。各自携帯端末の衛星監視と、統合センサーをつけておくように」
 霧島は指示すると、リュックから手のひらサイズの携帯端末と、首から下げるタイプの拳骨のような統合センサーを取り出し、両者を繋いだ。
 そして、アテもなく適当に山を歩き始めた。
「じゃ、僕も」
「気をつけてね」
 残る二人も、わかれて歩き始めた。
「なあ、逃げ水様よ。ホコラはどっちなんだ?」
 山城はふと持ち歩いていたフラスコを取り出し、なんとなしに話しかけてみた。
 もちろん返事はない。
「あはは……喋るわけないか。――ん?」
 いつもフラスコの真ん中に浮いていた水が、かなり隅っこに偏っていた。
「そっちへ行けってことかな。いや、逃げ水様っていうくらいだから」
 山城が中の水が寄っているのと逆方向を調べると、概ね、山の反対側だった。
「ちょっと、遠いな」
 ざっと携帯端末で地図を確認する。このまま反対側まで歩いたら、一時間以上かかりそうだった。
 このまま逸れてしまうのも困るから、一度集合しようと霧島にメッセージを飛ばす。
“了解、そこで待て”
 すぐに返信があり、ほどなくして藪の中から望月とともに霧島が現れた。
「ふむ。その辺りなら、一度道に出てからのほうが行きやすそうだ。あんな道でも、雑木林を突き進むよりはましだからな」
 携帯端末の地図を見て、霧島は一度道に戻るべきと判断した。歩いたことがあればこその判断だ。

 端末の画面、コンパス、それとフラスコの水を頼りに、進むほどに壊れ方の激しくなる道を行くこと一時間近く。雑木林をらぐいと見上げたところになにやら人工物があるのが見えた。
「あれがホコラかな」
 フラスコの水は、丁度逆側によっている。よほど行きたくないのか、フラスコの壁にレンズのようになって張り付いていた。
「ごめんなさい、逃げ水様」
 山城はフラスコの水に祈るように言うと、雑木林の斜面を登り始めた。
 直後、「山城君、ストップ!」と、後ろから望月が声をかけた。
「どうしました?」
「警告出てるわよ。端末の画面見て」
 山城が「警告?」と携帯端末を手にして見ると、大きな三角の真ん中に「!」が表示されていた。
 なんだろう、と「!」をタップすると、画面に“放射線注意”という文字が現れた。
 値を見る限りさして危険な状況ではないが、自然のものとしては異様に高い状態だった。
「所長! やばいっすか?」
「端末の積算計を起動しろ。黄色になるまでに引き返せ!」
「わかりました~!」
 大きく声を上げると、山城はそのままずかずか上っていってしまった。
「さ、俺たちも行くぞ」
「行くぞって、放射線が検出されてるんですよ!」
「三日居てもロケットで軌道基地へ行くのの半分も浴びない量だ。心配無用」
「えー、待ってよ!」
 残る二人も山城を追いかける。
 そして十五メートルばかり上ったところで、立ち尽くす山城に追いついた。
「ホコラ、っすね」
「ああ、ホコラだ」
「いや、違うでわよ」
 水源側からは見えないこの場所の山肌が半分えぐられており、分厚い金属の扉で閉ざされた大きなトンネルの入り口がそこにあった。
 トンネルは恐ろしく古そうで、扉もあちこちが錆び付いている。
 携帯端末をかざしてみると、その扉の一部が劣化して穴が開き、強目の放射線を出しているのが分かった。
「とりあえず、拝んで、写真とって帰るか」
 立ち尽くす山城の肩を霧島がぽんとたたく。
「あ、はい」
「帰りに、湧き水の放射線計っていく?」
「……いつもの水質検査に、放射線も入ってますよ。昨日も異常なしです」
「今のところ影響無しだな。さて、拝もう」
 三人は、目の前のトンネルを「ホコラ」ということにして手を合わせると、その場を立ち去った。
 そのとき、あれほど寄っていたフラスコの水が真ん中に戻っていたことには、誰も気がつかなかった。

【伝承】
 その日は七水研に戻ってすぐに浴びた放射線量と、残留放射性物質についてチェックしたが、自然の放射線を精々二週間分程度まとめて浴びた程度だった。
「モノがモノだけに、俺のほうから報告書を本部に出しておく。出し終わったら、また蕎麦食いにいこうか」
「また僕が運転っすか?」
 蕎麦屋に行く、イコール飲みに行く、である。

 夕方、蕎麦屋に着くと、昨日の爺様が来ていた。
「いんや、今日も来ると思っただよ」
 爺様がイラッシャイマセよりも先に声をかけてくる。
 戸惑い気味に「あ、どうも」と霧島が返す。
「山のホコラさ行くってことだでな、役場さ行って調べただぁよ」
 爺様は、途中まで食ったトロロ蕎麦を脇に寄せて、少々大きな携帯端末をテーブルに平置きした。
「じっちゃん、注文とってからにしておくれ」
 オカミサンが現れ、隣のテーブルに麦茶を置いていく。
「ザル蕎麦三つ」
 すかさず霧島が答え、「一つ大盛り」と山城が付け加えた。
「んじゃあ、茹で上がるまでに、ちぃと話を聞いてけれ」
 端末のスイッチが入れられ、トントンと何箇所かタップすると、七水研のある山の立体映像が、平置きした端末を土台にして浮かび上がった。
「ココが湧き水、コレが道。ここいらが、七水研」
 割り箸を使って、爺様が場所を指し示していく。
「ほんでもって、ここらがホコラ」
 ぐるっと山の映像を回転させて、さっきトンネルがあった辺りを指した。
「ここが何だったか、つぅとな」
 と言ったところで、その割り箸で爺様が蕎麦をすすって一息。
「何だったんすかね」
「今は違うがな、昔は核分裂で電気を作っててな、それがまたこっぴどく事故ったんだとよ。そンときの危ねえゴミを、人がイネエこの山ん中さトンネル掘って埋めたんだと」
「うわぁ……ありえないわ」
「んだな。それから暫くして、ゴミをきちっと片付けるやり方が出来たんでな、山から掘り出して片付けなおしてよぉ、掘ったり埋めたりした時の穴っこが、ホコラなんだと」
 もう一度端末をタップすると、第一次、第二次と放射性廃棄物の処理工程の資料が映し出された。
 一度は最終処分場として廃棄が始まったが、途中でより良い処理方法が開発され、再び取り出されてそちらに持って行ったらしい。
「んだども、どうしても少しばっかり残りカスがあってな。それが出てきてないか毎年持ち回りで見に行ってたのが、いつの間にかお祭りになって、ほんでもっていつの間にか廃れちまったわけだ」
「なるほど。そういうことでしたか」と、霧島。
「地上で核分裂発電なんかしてた時代があったのね。今だって、タダで放射能除去処理出来るわけじゃないのに」
「除去方法の確立前に核分裂使ってたこと自体驚き……って、事故って、あの、日本史で習った――」
 山城が最後まで言い切る前に、「おまちどうさん」と茹で上がったザル蕎麦がテーブルに届けられた。
「さあ、食うぞ。オカミサン、ビールもよろしく」
 霧島が割り箸をぱちんと割って蕎麦を食い始めた。
「あ、僕もいただきます!」
 
 ほろ酔い二人、腹いっぱい一人。「ごちそうさん」と蕎麦屋から出た。 
「おっと、いつのまにかメッセージだ」
 霧島が手にした携帯端末に、“第三軌道基地より、降下船で処理班を向かわせた”という本部からのメッセージが届いていた。
 星空を見上げ「あれっすかね」と、山城が天を指差す。
 一筋の光が、七水研のある山に下りてきた。
「今時の処理班が行けば核分裂の残りカス程度、すぐに片付くだろう。これで旨い蕎麦も安泰だ」
「茄子もっすね」
「ぬか漬け、そんなに気に入ったの?」
 
 人知れず、フラスコの中身はただの水になっていた。
 謎の「逃げ水様」の伝承と、本物のホコラを一つずつ追加して。
 翌年からは祭りも復活し、伝承の中で七水研は永く語られることになる。 

不幸せと幸せの海底 by えるれ

作:えるれ HP:末永く檸檬
分量:20枚  使用お題:溺死者、海底


さようなら、さようなら。

今日この海で、人が死ぬ。

幸せな死を迎える。





今日もこの海は光ることもなく淀むこともない。
ただ静かに、まだ存在する俺の上に横たわっている。

もう存在しない俺は、砂浜でそれを見つめている。



16年間の先を見てみろ、今が辛くてもその先に輝かしい未来があることがわからないのか。

俺が俯いているところを見た大人はこぞって未来の話をした。未来を無駄にしてはいけないという意見はわかる。そこには今とは比べ物にならないほどの可能性があると、様々な偉人が示してくれた。辛くない現在だって、未来では手に入れられるだろう。

でもそんなことはどうでもよかった。

俺は、今、辛かった。

今、生きていたくなかった。

大人たちの視線や言葉を日々浴びていれば嫌でもわかった。両親も教師も、こんな息子を、こんな生徒をもってしまったという責任から逃れるために未来の話をしているのであって、俺が今を生き延びるためにしてくれているわけではなかった。俺の今には何の興味もなく、今を生きる俺のことは疎ましく思っていることがありありとわかるため息を何度も聞いた。
だから俺も、伝えるのを諦めた。

俺は、別の世界に飛び出すことはなく用意された現実の中で這い回り逃げ回るような人間だとされていた。臆病者で、学生という甘い身分にいながら辛い辛いとのたまう、打たれ弱い人間だと。

実際には俺は、誰かに辛いと、生きていたくないと漏らしたことはなかった。辛いと思ってしまえば負けだと思えたし、辛いと漏らしてしまえばいよいよ生きている価値がなくなる気がした。

そうは思っていても段々と、深く深く俯くことしか出来なくなっていた。前を見られない。人を見られない。あいつらと目が合えば殴られる。目が合えば笑われる。目が合えば。目が合った、と言われれば。
下を向くことは俺の生き延びる術だった。それを見て大人たちはため息をつき、あいつらに対しては何も言わないのだった。

あいつらはそんな俺をキモい暗いと笑い、罵倒してきた。大人たちは俯き歩くことで大人の目を引き存在を誇示するのは止めろという目で見てきた。下を向くことで更に俺の立場は悪くなったわけだが、それでも下を向いていればあいつらの笑いも大人の目も見ずに済んだので下を向き続けた。

俺の下には誰もいない。

上にいける未来があるのかもしれない。
でも俺は底辺でいる今が辛かった。
でも底辺だからこそ、下には誰も、何もなかった。

結局逃げているようにとられる行動をしていた俺は、本当に臆病者で甘ったれた人間だったのかもしれないが、今となってはどうでもいい。

地上ではない下を見たことがある。

生物の授業で町はずれの海に行った時、あいつらの中でも俺に物理的危害を与えることを好むやつらが俺の頭を掴み、海に沈めた。
その時俺は意図せずとも下しか見えなくなった。
浅瀬だったから海の底はそんなに遠くなかったが、綺麗な海でもなかったこと、塩水が目に染みて視界が揺らいでいたことで下がどこまで続いているのかわからなかった。

俺の唯一の居場所の下が見えない。
それは恐しいことだった。

その時の俺にとっては、海に沈められたことより、下を奪われたことが被害だった。

でもふと思った。見えない下があるということは、俺の居場所も、見えないくらい続いているということだ。

俺は一瞬前の恐しさを忘れ、新たな居場所を見つけたという希望にも似たものを抱いた。

被害、という言葉を使えば、大人たちは被っているという意識が悪いのだ、立ち向かえ、と言っただろう。たとえ教師がその現場を目撃していたとしても、俺も悪いと言われるような対応しかとられなかったに違いない。
俺の通っていた高校は、数年前にいじめで事件を起こしてから、怪しき芽は摘んでおけという姿勢を貫いている。運の悪いことに俺の父親と母親の職業も教師で、更に運の悪いことに俺の高校の人間のクズみたいな考えに賛成する人間だった。
その考えを持つ大人たちを人間のクズだと吐き捨てて無視してしまえばよかったものの、そうするには俺には力が足りなかった。いくら世界を変えたいと思ったって、悲しいかな未成年の世界は大人で構成されている。その世界をぶち破って外に出るには、俺には経済力も気力も無かった。
それに、世界をぶち破る準備をするためには準備をする今を生きることが必要だ。その今が俺には耐えられなかった。成人したら世界を自分で作っていくことが出来る、そういう未来に希望を持つことも、俺には出来なかった。


ぶち破ったら一人で生きなければいけなくなる。結局死ぬ。

立ち向かったら潰される。結局死ぬ。

全員殺したら刑に処されることになる。結局死ぬ。

今のまま生きる。つまり死に続ける。

俺には選択肢なんて残っていなかった。




俺は、俺が唯一見つめていられる下で、暮らすことにした。




その俺の居場所を有する海が、俺が沈められた町外れの海、つまりここだ。

下に行くのは怖くなかった。

上を向けない俺には下しかなかったから。

寧ろ、あいつらの知らない下という居場所を手に入れられたことを誇りに思っている。

俺が一番恐れていたのは、発見されて、居場所から引き剥がされることだった。






誰も助けてくれなかった。
助けてくれと言ったわけではないから、助けてくれなかったというのはわがままだったのかもしれない。でも誰も、俺に生きていていいよという目を向けてくれはしなかった。
好きで自分たちに蔑まれて下を向いているゴミめ、現実から目を背け好きで下を向いている弱い人間め、そんな目だけだった。


だから、俺にとって下は居場所だった。
でも、あいつらも大人たちも、好きで俺が下を向いていると思っていたのか。
確かに、俺にとって下は居場所だった。
でも。


好きという感情を持っていたわけがないだろう。
俺だって上を向いていたかった。

でも俺には下しかなかった。

上を向けなかった俺は、下で安寧を得る。






だから地面よりもっと向こうにある、海底を俺の居場所に選んだ。







そうして俺が海を居場所に選んでから1年経つ。

1年経っても、俺は発見されずにいる。
1年前よりずっとのんびりと暮らしている。

でも暮らしている意識があるということは、思い残していることがあるのだということが段々わかってきた。

だから俺はたまに、俺が生きていた世界のことを考えていた。そして1年経った今日、その考えがまとまったから、俺はザブリという音もたてずに海から出てきた。やはり俺は俺が生きていた世界への思いがあるから成仏とやらが出来ないのだろうなと思ったのだ。



もう存在しない俺は海を見ている。
心なしか、かつて沈む時に見た海よりくっきり見える気がする。視力が良くなったのだろうか。そもそも、視神経なんてあるのだろうか。



海を見ていると、あいつらの上位意識や幸せな生活、大人たちの蔑むような姿勢や変わってはいないだろう日常が浮かんできた。



俺は叫ぶことをしなかった。
叫ぶために今を生きることも辛かった。
生きたくても生きられないアフリカの子どものために、俺は命を残しておくべきだったのかもしれない。
でも俺の命が残ったってアフリカの子どもが助かるわけではないだろう。

海を見ながら浮かんでくるのは、命を残せなかった、残せるような世界を許されなかった1年前の自分の叫びだった。



何故俺が下を向かなければいけなかったのですか。

何故俺が標的にならなければいけなかったのですか。

何故俺は理由も無く殴られなければいけなかったんだ。

俺はあいつの足を踏んだ時に謝ったのに。足を踏んだ、ただそれだけだったのに。

俺は殴られた。踏みにじられた。存在をとりたてられた。存在をなかったことにされた。

沈められたことには感謝している。下の存在を知ることが出来たから。

ただ、息が出来なかった。苦しかった。痛かった。こいつらに立ち向かっても通じないと思わされた。俺には未来なんかなくなった。

何故俺に手を差し伸べてくれなかったのですか。

何故気づいてくれなかったのですか。

俺が自分で言わなければいけなかったのですか、辛い、助けて、と。

でも言葉に出せば自分が辛いことをすぐに言葉に出すような情けない奴として見られ、生きる価値もないと思われるのは目に見えていたんです。あんたたちの目を見ればわかります。

何故芽は摘まれなければいけなかったのですか。

それはいじめという芽ではなく、俺が必死に生きているという芽だったのに。

育つ環境さえあれば、あんたたちがいう未来には咲いたかもしれないのに。

母さん、父さん、夜に2人であいつは暗い、面倒だ、いじめられているみたいだ、教師の息子がいじめられているなんてバレたらどうなることか、と言っているのは聞こえていました。1年前の1週間前に聞きました。その時俺は、良い機会だなと思いました。家の中にも、居場所がなくなることを感じたのです。いじめられているとわかれば自分たちの身が危なくなる息子がこの家にいるというだけで存在を疎まれることが、前からわかっていたけど、決定的になってしまったからです。







今だから、叫べるだけ。

自分が可哀想と思っているわけではない。

蔑まれ、殴られ、笑われ、見て見ぬふりをされるのが1人。

蔑み、殴り、笑い、見て見ぬふりをするのが大勢。

1人さえいなくなれば、この事象は終わる。

だから1人が死んだ方が合理的だ。







でも何故。

何故苦しんだ1人の方が死ななければいけないのか。

下にいきたい、俺が唯一落ち着く下に行きたいとだけ思っていたあの時は、疑っていなかった。あいつらに死ねと思う前に、自分を沈めることで精一杯だった。

でも下で、骨になりながら、自分に、あいつらに、あんたたちについて考える余裕が出来てきてから、思うようになった。

何故俺が死ななければいけなかったのか。

本当は。

本当は俺は死にたくなかった。上を向いていたかった。あんたたちが言う未来ってものにも本当は興味があった。

でも生きていられなかった。上を向くことは出来なかった。ゆるされなかった。未来を考えるには今が辛すぎた。

お前らは、理由もわからないまま瞼が潰れるまで殴られたことはあるか。

お前らは、ネットに自分に関する根も葉もないことを書かれ、拡散され、顔も知らない人間から大量の誹謗中傷のコメントを書かれたことがあるか。

階段から落とされたことは。

階段から落とされた傷に対して、情けないという意味合いが多分に含まれたため息をつかれたことは。

そのまま家に帰ったら、察しているはずなのに、何も言われなかったことは。

俺は死んだ。

辛いから。

未来を見るため立っている今が辛いから。

何が悪いんですか。

でも、何故死ななければならなかったのですか。








だから俺はこの海で死んだ。

さようなら。さようなら。幸せではない死。

俺はこの海で死を迎えた。

一年前の今日に。






でも何故?

俺が死ななければいけなかったのだろう。

何故?

あいつらが生きているのだろう。

何故?

1人が死ねば片付くから。

1人が死ねばみんなの面目が保たれるから。

1人が死ねば平和が戻るから。






何故、その1人が死ななければいけない。






だから今日、この海は幸せな死を迎える。

冬は恋人たちが、寒いね、などと言いながら手をからめ合うこの海で。

夏は家族たちが、楽しい、と笑いながら水をかけあうこの海で。

綺麗でも汚くもないこの海で。







俺は海を見ている。そうしながら、あいつらを待っていたのだ。

あいつらの声が聞こえる。何も知らずにこの海に来たのだ。

俺が死んだ場所だとも知らずに。俺が呼んだことも知らずに。





味わえ。

俺や、俺のような人間が無理矢理向かされる、行かされる、下を。
そこでの苦しみを。好きではないが愛しい下での苦しみを。



そしてあいつらが死ねば、あいつらの親が苦しむだろう。
あいつらが死ねば、そしてあいつらの親が学校への言及を始めれば、学校が苦しむだろう。





そして俺はやっと、上に行くことが出来る。
あいつらが全員死んだ次の日、砂浜に横たわる白骨が見つかることになる。



俺の両親は息子の白骨死体を見て苦しむだろう。
俺が小さかった頃を脳裏に浮かべて、愛情を思い出すのが遅すぎたことに気が付くだろう。





俺の体はやっとあいつらより上に行ける。

あいつらと同じ所にいるのは耐えられない。

俺の心は海底よりずっと下の場所に行くだろう。

地獄と呼ばれている所かもしれない。

でも今となっては、どうでもいい。






ほら、あいつらが来た。海に行きたいと思い立って、6人全員で。
しかも、海水浴場として整備されている場所じゃなく、この場所に。


生きていた頃に幽霊と呼んでいたものになってから、あいつらの心に影響を与えることが出来るなんて。生きていた頃にあいつらの心を動かせたとも思えないけれど。この、子どもとか未成年が希望を持たないという現象が、大人は気に入らないのだろう。希望を持てなくしている原因に自分たちもいるということはわかっているのだろうか。




海は凪いでいる。しかし不穏な風が吹いている。

馬鹿騒ぎをしているあいつらは気づいていない。俺はあいつらが海に入るのを待つ。


俺は砂浜に立っている。
海底に沈んだ時と同じ、何の思い入れもない高校の制服を着ている。思い入れなんて私服にも制服にもなかったし、わざわざ私服に着替える気力もなかったのだ。



はしゃぐあいつらを眺めている。
あいつらの足の裏についた砂は海に流れて行っただろう。
俺の足の裏にはもう砂はつかない。




あいつらは、すぐには浅瀬に戻ってこられないような沖まで行った。俺が沈んだのはもっと先だけれど。今考えると、服も着ていたのによくあんな沖まで泳いでから力尽きることが出来たと思う。事前に飲んでいた、眠気を伴う頭痛薬も良いタイミングで効いた。
俺には未来に向かう力は何も残っていないと思っていたが、あと1分後に自分が死ぬという未来に向かうための力なら発揮できた。

あいつらは水着だし、すぐにではないが必死に泳げば浅瀬に辿り着けるような場所にいる。




でもあいつらは死ぬ。溺れて苦しんで死ぬ。俺が死なせる。




俺にとって俺の死は苦しみから解き放たれるという点においては幸せだったが、その他全部の点においてはまったく幸せではなかった。


俺にとっての幸せな死が、遂に来る。






波が立ち始めた。

あいつらはまだ、波が起きるアトラクションがついたプール感覚でいるようだ。

風が強くなり始めた。

潜ったり水中ででんぐり返りをしたりしているあいつらはよくわかっていないようだ。

空に雲が広がり始めた。

女の一人が、なんか寒くない?と言った。

波が高くなり始めた。

ちょっと何か変じゃない、とあいつらの誰かが海の変化を察した。






お前らはもっと早くに、自分たちがしていることの取り返しのつかなさに気づくべきだった!

自分は何も失っていないからと笑えていても、いつか失ったものに気づく時が来る。

いつか何かを失う時が来る。

今がその時だ!







俺は、海面に立っている。今度は、こいつらには出来ないことをしている。

全員の形相が更に歪んだ。俺と目が合ったような表情をした。

見えているのか?どうでもいい。どうせこいつらの人生において今日の記憶はなかったことになる。

さようなら。俺にとって、幸せな死を。









俺も沈んでいく時、こんなに汚いあぶくを出していたのだろうか。
だとしたら海に謝らなければいけない。

でも俺はきっと、静かに死ねただろう。
生きている間も、静かに死ぬのは上手かった。



俺は下に感謝している。下のことは好きではないが、感謝はしている。

俺に1年間の猶予をくれて、存在しない存在として存在させてくれた海底に感謝している。




俺も死ぬ時、こうして情けなく上に手を伸ばしていたのだろうか。

いや、俺はあの時はもう、下に行って楽になりたいと思っていたからきっと違う。

その思いに伴う行動は置いておいたとして、楽になりたいと思うことは悪いことではないだろう。


俺は手を伸ばさなかった。












じゃあ、生きていた時は?










自分より背の高い鉄棒につかまろうとした。

星は掴めるのではないかという空想を抱いた。

ジャングルジムの頂上にいる友達を追いかけようとした。

父親の背に登ろうとした。

母親の腕の中にもたれようとした。

昔は、自分から手を伸ばしていた。





いつしか、未来と健康的な想像への入り口はいつも誰かが塞いでいた。
下が落ち着いた。下しか居場所がなかった。上なんて俺にはなかった。

生きていた時は、上に行くことだけでなく、手を伸ばすことさえ諦めていた。
俺に手を伸ばす上はないと思っていた。






そう思うことが当たり前になったのはいつからだろう。






俺は上に手を伸ばすことすら許されなかったのに、こいつらはこの期に及んでまで、手を伸ばすことが許されている?









ああ。許されているのではないのか。

こいつらは死にそうになりながら死ぬことを許されていないのだ。死ぬ間際で死なせてもらえていない。

こいつらの人生において今日の記憶をなかったものにしないために。

何かを失ったことを気づかせ、その記憶と共に生きて行かせるために。

俺を死んでからもなお存在しないものとして存在させた海底よ。

そういうことですか?












気が付けば6人は砂浜に、殺虫剤で死んだ蠅のように横たわっていた。

俺はまた砂浜に立っていた。こいつらみたいに砂だらけになりたいとは思わなかった。

こいつらに生きていてほしいとも全く思わない。

でも自分が何を失って何を得てしまったかがわからないまま死ぬのは、こいつらを楽にさせるということではないのか?

楽になりたいという必死の思いと同等にこいつらを立たせるわけにはいかない。

でも、俺だって同じだよ。

元々手に入れていたものがどんなものだったかがちゃんとわかっていなかったから、何を失ったのかもよくわかっていなかった。限りなく希望の無い生活の中で、ちっぽけでなんてことはなくてつまらないものでも、何かを得ながらここまで来たことに違いはない。






母さんがたまに言う「おかえり」。

クラスの男子が、俺のプリントも一緒に持ってきてくれたこと。

さびれたスーパーのレジのおばちゃんが、おまけだよとくれた飴玉。

全部見せかけで、全部信じてはいけないと思っていた。

得ていたのか。心の底から、得ていた、とは思えないけれど。







この海は幸せな死は迎えなかった。誰も死ななかった。




そのかわり、記憶と共に生きることになった。

あいつらと目が合った時、気づいたように見えた。あいつらは、死より辛いかもしれない死にかけた記憶を得た。自分たちは何もやっていないと思っていた記憶を失い、自分たちがやってきたことの記憶を得た。あいつらも、大人たちも、失ったものと得てしまったものに気づいてほしい。

海底にいた俺には、母さんと父さんが、俺が死んだ後どんな生活をしていたのかわからない。でもきっと、失った、とは思ってくれただろう。今、死んだ蠅のような6人の反対側に、綺麗な花と手紙があるのを見つけて思った。

俺は、かつてはおぶられ、抱きしめられた息子だった。





失って、得て。人生はその繰り返しだ。





俺には人生はもうない。海底に戻る。

今まで失ったものと、得たものを数えてから、久しぶりに上に手を伸ばしてみよう。

伸ばした先は、水面か、天国か。

向かう先はどちらか。やはり俺には下が似合っていると、地獄になるか。

地獄に落ちる時、俺は上に手を伸ばすだろうか。








失ったものと得たものを数えてみよう。

忘れたくても忘れられない、辛い人生だけではなくて。
得たものの方が多くなるように、短かった俺の人生を、いちから思い起こして。











さようなら、さようなら。

1年前この海で、人が死んだ。

今日、幸せな死を迎える。




さようなら、さようなら。

今日この海で、人が死ぬ。

幸せな死を、迎える。










<END>

蚊取り線香の思い出 by 月島瑠奈

作:月島瑠奈 HP:満月未満
分量:7枚  使用お題:蚊取り線香、汗を拭う、ゲリラ豪雨、麦わら帽子、打ち水をする


『ちょうどよかった。みりん買ってきてみりん!』
 いつも通りの帰るコールをしたら、待ってましたと言わんばかりの奥さんの声が耳に届いた。お疲れ、までは要求しないからもしもしくらいは言ってくれ、と口から出かかったが堪えた。育ち盛りの怪獣(息子一歳半)と日々格闘してるんだ、こんな事くらいで文句を言ってはなるまい。
「解った、どこの使ってるんだっけ」
『別にどこでも……たーくん何やってんのー?! やだーもう。ごめん! お願いね!』
 返事をする前に電話が切れた。
 今日も怪獣は絶好調(?)だな。汗を拭いながら、近くのドラッグストアに足を運ぶ。
 連日の猛暑に昼間のゲリラ豪雨が重なり、夜七時を過ぎようと言うのに蒸し暑さが半端ない。

 ドラッグストアの入り口で出迎えてくれたのは、ワゴンに入った大量の蚊取り線香の缶だった。
 未だにこれだけの需要があるのか、それとも在庫を捌きたいだけなのか。どちらかは解らないけれども、少なくともうちでは需要はない。実家でも電気式のものを使っていたので、ああ昔はこれだったよなあ、と懐かしむ事もない。
 いや、婆ちゃんと同居を始めた頃に一時期使った事はあったっけか。


——みてごらんまあくん。これは蚊取り線香っていってね。置いておくと蚊が来なくなるんだよ。

 小学校に上がる前の俺にとって、ぐるぐると渦巻いている緑色の物体はそれだけで十分に幼心に訴える何かがあった。ライターで火が付けられゆっくりと煙をくゆらせながら燃え縮んでいく様がとても面白かった。余りに面白過ぎて、しばらくずっと眺めてた事を覚えている。
 母親が「電気式のがあるのに始末が面倒なものをわざわざ買ってくるとかもったいない」とかなんとかいって、活躍したのはその夏限りだったけれども。
 
 そういえば、最近は打ち水してる人も、麦わら被って駆け回っている子供もそんな見かけないなあ(そもそも毎日暑いから、屋内施設で暑さを凌いでる人が多いんだろうけれども)、それも時代の流れかねえ。と何気なく蚊取り線香の缶を手にしながら思い。すぐに、みりんみりん。と反芻しながら、ワゴンの山に戻す。
 思い出にふけるのは、奥さんからの指令を遂行してからだ。

 さてみりんを買わねば、と思ったところでのスマホが再び震えた。なにか足りないものでもあったか、と画面をみると表示されていたのはお袋の名前だった。そう言えば、昨日から何回か着信が入ってたっけ。かけるの忘れていた。多分時期が時期だからお盆の休みの話だろう。
 はいはい、今出ますよ。と誰ともなしに呟きながら応答ボタンを押す。スマホを耳にしたところで近くで陳列作業していた店員ににらまれた気がしたので、慌てて足を店外にむける。キンキンに冷えた店内と、サウナ状態の外気のギャップが気持ち悪い。

「もしもし」
『やっと出たよバカ息子』
 いかにもご機嫌斜めな声が聞こえてくる。
「電話出たら、もしもしくらい言って?」
 定年過ぎた親父とずっと一日じゅういるお袋にはするりとこういう文句が出てくるんだよなあ、と思いつつ応対する。別に、親子仲が悪いとかそういう訳ではない。そういうコミュニケーションというだけだ。
『あんたがいつまでもお盆にくる日を連絡しないのが悪い』
「……決まってない休みを連絡出来る訳ないだろ」
『じゃあ、早く決めて』
 無茶を言う。自営業じゃないんだから、企業のヒラ社員が一存で休みを決められる訳じゃないか。
『早く教えてくれないと色々準備できないじゃない! たかちゃん(息子のことだ)にごちそうも作ってあげなくちゃ行けないし!』
 おいおい、まだ7月の初めだぞ? まだ離乳食も卒業できてない子供に、一ヶ月以上もかけてどんなごちそうを作ろうって言うんだ。これだから、バババカは困る。節約しなきゃと親父に発泡酒与えるんだったら、週に一回でもいいからいいビール買ってやれよ。そんな事いうんだったら。今度実家いった時に鉄拳を喰らう羽目になるから、無論思った事は口には出さないが。
 その後も、あんたもっとマメに連絡よこしなさい、たかちゃんの声も聞かせなさいとかぶーぶー文句を言ってくるお袋に適当な返事を返して、半ば強制的に電話を切り上げた。

 再びワゴンの蚊取り線香が目に映る。
 婆ちゃんは一昨年の末頃、もう少しで息子が産まれようという時にこの世の人ではなくなった。ひ孫の誕生を楽しみにしてくれていたんだよ、と知ったのは葬式の時だった。それからまもなく息子が誕生し、慌ただしい日々が始まって、四十九日の日時以外実家には行っていなかった。お袋が何回か来てくれたが、こちらから実家にいくのは実に久しぶりの事なのだ。
 婆ちゃんの事をちょっと思い出す。今まで会いにいけてなくてごめん。ひ孫の顔みせにもうすぐそっちに行くから。
 たまには昔に返ってみるのもいいかもなあ、とワゴンの中の蚊取り線香の缶を手にし、いや、やっぱ駄目だ。と山の中に戻した。
 


 昔を懐かしみたいのは山々だけど、蚊取り線香がやんちゃ怪獣のおもちゃになるリスクは避けるに越した事はない。


 さて。みりん、みりん。

『麦わら帽子のトラベラー』 ――サーバルサキ by 猫

作:猫 HP:処々迷々
分量:29枚  使用お題:打ち水をする、ゲリラ豪雨、麦わら帽子、向日葵、蝉時雨を聞く、夏星の国は遥かに、逃げ水を追い駆ける、海底


 それは、ドームシティの河川緑道公園をそぞろ歩いている時の事だった。突如、水遣りジョロで水を掛けられたかのような降雨が始まり、慌てて木陰へと駆け込む。
 ドームシティは砂漠の真只中に在る都市で、想像を絶する程の超巨大ボールを真っ二つに割って伏せたような代物の中に造られている。唖然とするような高さで聳え立つビル群を擁するヒミンビョルグ市でも、ハブ空港を擁する複雑怪奇構造の機械の如き都市でも、森や草原と同様に、頭上には空が広がっており、雨は空から降って来る。雨は本来、天からの便りであり、自然の恵みなのだ。だが、ここでは違う。雨は、完全に人工物である。
 雨脚は激しくなり、水がブロックタイル張りの道を川のように流れ始める。ここを管理している輩にとっては「打ち水」くらいのつもりなのかしれないが、これでは、ゲリラ豪雨の大洪水だ!
 高台を求め、急ぎ走る。ずぶ濡れになり、物知りママミケシュが「ドームシティの降雨は、時に『路上清掃』のためのもあるらしいから、気を付けるのね!」と、言っていたのを思い出す。
【道理で、人っ子一人、歩いていなかった訳だ】と、合点するも、「時既に遅し」である。
 階段を駆け上がり、塀を跳び越し、見知らぬ家のテラスへと駆け込む。雨の飛沫は、テラスの床をも濡らす。堪らず、壁際の何も乗っていない丸机の一つへと飛び乗る。
 濡れた体をぶるりっと振るいつつ振り返り、外を見遣るも、薄銀色のカーテンを張ったようで、全く何も見えない。
「これぞ、滝雨だな!」と、思わず呆れ声で呟き、大きく溜息を吐いた。
 致し方無く、腰を落ち着け、丁寧に身体を拭う事に専念する。

 身体全体が綺麗に拭い切れた頃には、雨は完全に止み、何事もなかったような晴天になっていた。降るのも突然なら、止むのも唐突である。
「人工雨とは、味も素っ気も無い、無粋な代物だよなあ」
 大きく伸びをして、テラスへ降り、塀へと跳び乗る。見回せば、下方の道では、三角形の箱状物が複数、アメンボのようにくるくる行ったり来たりしながら、水抜口付近に寄った塵芥を、ぱくぱくとその腹内へ納めている。バブ空港都市で時々見かける物とは形状と大きさが異なるが、「掃除ロボット」と称される代物であろう。
 ふと見遣れば、先程駆け上って来た階段の途中に、麦わら帽子が落ちている。
【確かに、さっきはなかったはず……】
 不審に思い能く見ると、少し薄汚れてはいるものの、全く濡れた様子は無い。乙女チックでありながら上品なリボンと向日葵のコサージュが飾られている、柔らかい大きな鍔の女物麦わら帽子である。コサージュも相当に手が込んでおり、見るからに高級品だ。
【雨の直後に飛んで来たとは考え難い。何処から現れ出でたるや?】
 塀から跳び下り、警戒しつつそろりーっと近寄る。
 と、そこには、身長は小生と同等くらいだが、どう見ても少年としか思われない奴が、その帽子を被るようにして立っていた。
【成る程。此奴が引き摺り回して持って来たから、薄汚れしまったのだな!】と、了解すると同時に、少年の異様さに気付く。
 少年は、骨と皮だけのようにガリガリに痩せ、今にも倒れそうな程に肢体がふらふらしている。
「おい! どうした? 迷ったのか? 捨てられたのか? 何時から食べてないんだ!」
「シルビア…お嬢様……、僕、お帽子……捕まえ…ましたよ。シ…ル…ビア……」と、少年は、視点が定まらぬまま何度も、うわ言を呟く。
【にゃんじゃらほい! 此奴はもう!!】
 心中で思わず唸るも、出会ってしまったからには、こんな状態の少年を放っておく訳には行かない。
【ええーっい! 先ずは、水分補給だ!】
 小生に直通可能な、手っ取り早い「良い水のみ場」と言えば、あそこしか思い浮かばない。地下都市エイキンの「第三区坂中噴水」だ。
 少年の首玉をがっしりと持ち、第三区坂中噴水をしっかりとイメージし、ぐっと力を込めて、大きく一歩踏み出す。
 一瞬、脳貧血のように視界が暗くなったが、肢体はしっかと地面を踏んでいた。
 小生は少年を引っ抱えたまま、間違い無く、第三区坂中噴水の前に立っていた。
「おらおら! 水を飲めったら、飲め!」
「死んでも放す気が無い」とばかりに、麦わら帽子の紐を握りしめている少年の鼻先を、水盤へ突っ込むように押し付ける。と、本能が欲したのか、少年は半ば無意識の内に水をべしゃべしゃと飲み始めた。
【ほう。やれやれ……】
 小生も隣で、緊張で渇き切った喉を潤す。

 心行くまで水を飲み、頭を上げた少年は、こちらへ向き、きちんと四肢をそろえて正座した。その姿は、先程より一回り大きくなったように感じられる。身長は、小生よりも高そうだ。
【まさか、干物が水を吸って膨らんだみたいな事、ニャイよなあ……】と、密かに思いつつ、改めて見れば、その身体は、麦わら帽子同様、少し薄汚れてはいるものの、飢えで痩せていると言うのではなく、細身で優美と言える。
 金茶色の体毛は短毛で、喉下から胸腹部と脚の内側は白く、ベンガル山猫のような黒斑模様が散らばっている。額にはM的な黒線がくっきりと有り、首の後ろにも黒線模様が何本か入っている。両耳は、丸めでかなり大きく、尾は、身長の割には短めだ。
 能く能く、見れば見る程、初めて見る模様と体型の奴である。
「小生は、森と草原の渚で生まれのマヨ。お前、名前は? 住まいは何処だったんだ? 何で、あんな処でふらふらしていたんだ?」
「僕は、サキと申します。シルビアお嬢様の学園都市に住まいしてました」
「はあ? お嬢様の学園都市!? それって、空中都市じゃニャかったか? お前がさっき居たのは、地上都市——ドームシティの河川緑道公園の傍だぞ!」
「えっ! ええ? ドームシティ……シルビアお嬢様のご実家が在る? 僕は、学園都市の空港で、シルビアお嬢様のお帽子が飛んだのを追い駆けて……」
「学園都市の空港……そこで、飼い主と逸れて、猫道を通ってドームシティまで飼い主を捜しに来てたって訳か?」
「あ……え? 猫…道?」
「そうにゃ。お前も習って歩き出したんだろ!『子猫が初めて歩く猫道は、ミャミャンの尾っぽの後追い道』の、猫道」
「え? は? みゃみゃん……???」
 サキは、大いなる困惑顔を見せる。
「おいおい、お前! ミャミャン——母親猫を知らないのか? 捨て猫だったのか? それとも、ブリーダー育ちの売り猫だったのか?」
「お母様ではなくて、お嬢様と暮らしていたのです。シルビアお嬢様と。お嬢様は、優しい素敵なお方で、とても柔らかい手をなさってます。白銀色の髪はふわふわと長くて、色白でふっくらと可愛い小顔で、瞳は素敵な赤っぽい桃色なのです。もし、金色に輝く羽さえ有れば、『神族だ』と言われるようなお美しいお方で……」と、サキは、真剣に「シルビアお嬢様」の事を説明する。
 小生の言っている事が、サキには、全く通じていないようだ。
「ああ、分かった、分かった!」と、説明を遮り、
「サキは、シルビアお嬢様に飼われていた『室内飼い猫』だったって事だにゃ。まっ、それはいいとして。お前、腹が減ってるんじゃニャイか? 近くに、良い食事処があるぞ!」
「あ、はい。それは……」と、サキは、少しもじもじするも、
「でも、僕。シルビアお嬢様を探し出して、お帽子をお渡ししないといけませんから」と、きっぱり言う。
「成る程それは、ご立派な考えだが、腹が減って動けなくなったら、お嬢様を探すも、帽子を渡すも、出来ニャイだろうが!」
「あ、はい。確かにそうですけど……」と、イカ耳顔になるサキへ向け、小生は、
「さっ! つべこべ言わずに、付いて来い! 『腹が減ってはどもならぬ』だ!」と、尾っぽを母親猫のようにぴぴんと立て、四区のボス悪四郎に教わった三区に在る「接待所」——上品な老夫人の家へと向かった。

 麦わら帽子をしっかと持ったまま、もたもたしているサキを、塀の上から突き落すように押して庭先へと入れる。小生も、ぽんと飛び込み、以前、悪四郎がしたように、甘ったるい声で「にゃあにゃあ! にゃあにゃあ!」と呼ばわる。
 すると、あの時と同様に、瀟洒なレースカーテンが掛かった二階の出窓が開き、上品そうな人間の老女が顔を出した。
「あら! 御背中ふわふわスポッティちゃん! いらしてくれたのね!」
 老女は前回同様に、テラスの戸口から碗と皿を置いた盆を手に、出て来た。
「そちらの可愛い子は、お耳の大きなベンガルちゃんね! 何処かの飼い猫さん? 少し冒険をし過ぎたのかしら? 後で、ブラッシングした方がよさそうね」と、麦わら帽子の横でお行儀良く座っているサキを見ながら言い、
「スポッティちゃんは、とっても綺麗にしてるわね! 貴方は生粋の自由猫さんのようだから、大丈夫よね」と、小生の方を向いて微笑んだ。
 食事が終わると、老婦人はサキを優しく抱き上げ、汚れを拭き始めた。サキは初めの内、少し身を固くしていたようだが、直ぐに、グルグルと喉声を上げ、なされるままになる。
 小生はそれを横目に、猫の本分たる食後の身繕いをする。
 老婦人は、サキを丹念にブラッシングしながら、話し掛ける。
「ベンガルちゃん。その麦わら帽子は、飼主さんのでしょ? 貴方は、ここ、地下都市の飼猫さんじゃないわね。ここでは、幾ら御洒落だったとしても、そんな帽子は被らないから。貴方、飼主さんと一緒にお外を歩いていて、飛んだお帽子を追っかけて、迷子になっちゃったんでしょう? ここまで遣って来たのは、スポッティちゃんのお勧めだったからよね? さてさて、この、くしゃくしゃの汚れたバンダナは、外しましょうね! 自由猫に成るのならば、邪魔物だし、飼主さんの処へ帰るのならば、また新しい素敵なのを付けて貰えるでしょうからね」
【ニャンと! なかなかの洞察力と、的確な対応!】
 身繕いの終わった小生は、きちんと座りなおし、敬服の眼差しを老婦人へと向けた。
 老婦人は、見違えるほど身綺麗になったサキを、そっと小生の隣へ下すと、
「ベンガルちゃん。貴方は、今後の事のためにも、もう少し食べた方がいいわよ。栄養強化カリカリを持ってきてあげましょうね。それから、スポッティちゃんは、ミルク飲むかしら?」と、言い、再び、別の碗を二つ持って出て来た。そして、
「さっ、ゆっくりとお食べなさい。ベンガルちゃん。この大事なお帽子も、綺麗にしておきましょうかね」と、言い残して、前の食事容器とブラッシング道具一式と麦わら帽子を持って家の中へと入った。
 小生は、地上の牧場からのお取り寄せであろうところの美味しいミルクを頂きながら、
「サキ。お前のお嬢様は、空港から何処へ行くと言ってたんだ? 小生が知ってる処ならば、送って行ってやれるけど?」
「お嬢様は、夏星の国へ行くと言われました」
「夏星の国? 聞いた事、ニャイにゃあ……」
「お嬢様は、完全管理の美的調和都市——学園都市は息苦しいから、夏星の国へ行きたいと。夏星の国は、自由で、素敵な所だと……」
【あにゃ? どっかで聞いた事があったような理由……。そうにゃ! エイキンのセシル!】
 セシルは、トラブルシューターと言う裏仕事をしている人間の女であるが、前世は自由猫の凛々しい雄猫であったであろう人間である。そして、「不便のない生活に目をつぶって、空の豪奢な牢獄に囚われたままで生きるか、それとも約束された安定した将来を捨てることで、不確かで不安と希望が入り混じった自由の世界で生きるか」の選択で後者を選び、学園都市から地上へと渡って来た人物だ。
 元雄猫のセシルならば、自らの歩みで自由を勝ち取って当然である。しかしながら、サキの説明を聞くに付け、あの麦わら帽子を見るに付け、サキのお嬢様が、セシルのように自由闊達に生きて行けるとは考え難い。
「本当に、お前のお嬢様は、そこへ行けると思うのか? サキ……」
「お嬢様が、そう言われたのですから、間違いありません! 行かれてます!」
 小生の疑念の眼差しに対しても、サキは頑なに言う。小生が密かに溜息を漏らしているところへ、
「もう、お腹一杯になりましたか? はい、これ、どうぞ! 防水スプレーもしておきましたよ 」と、老婦人が、これまた、見違える程綺麗になった麦わら帽子を差し出して来た。
 慈しみの微笑みを向けて来る老婦人に、小生は、すりすり最敬礼を何度もした後、
「兎に角、夏星の国が何処にあるか分からニャイ事にはにゃあ。先ずは、物知りママミケシュの処へ行って訊いてみよう!」と、サキを促し、庭を出た。


 一人歩き経験の無いサキを猫道へと入れ込み、麦藁帽子ごと、頭突きをするようにして押し出し、ヒミンビョルグ市の‘いこいの森公園’へと出た途端、耳を聾せんばかりの蝉時雨に包まれた。
 サキは、麦藁帽子の下で首を竦め、全身の毛を硬く立てている。
「蝉時雨——こんなにうるさいのは、聞いた事ニャかったかい?」
「せみ…しぐれ?……セ、ミ???」
「おいおい! 沢山の蝉の鳴き声の事だ! サキ。学園都市には、蝉は居ないのか? ほら、そこの油蝉なんかは、食うと美味いんだぞ!」と、鼻先で指し示すと、サキはおずおずと木の幹を見上げて、
「初めて見ました。あれが!? 食べ物なのですか? 学園都市に居るのかどうかは、分かりません。今回、シルビアお嬢様と家を出るまで、外へ出た事が無くて……。」
「お前、本気で‘室内飼い猫’だったんだにゃあ……。」
 小生は思わず知らず、大きく溜息を発してしまった。

 ママミケシュは、真夏の日差しを避け、木陰の石造りベンチの上へ寝そべっていた。その傍では、ララ姉御も大きく伸びている。その向こうの木のベンチの上では、ポニーとドビッシーが、ごろり寝をしていた。
 ララ姉御は、公園生まれの嫡々の自由猫で、公園では顔役的存在である。そして、ポニーは、オフィス街で会社を警邏して回っている警備職猫で、ドビッシーは、公文書図書館の猫である。
「皆様、お寛ぎのところ、申し訳ございません」と、頭を下げる。
「こっちは、ドームシティで出会ったサキです。本来は、学園都市で室内飼い猫をしていたようで……。で、このサキが『夏星の国』へ行きたいと言うのですが、何処にあるか、何か、御存知ニャイでしょうか?」
 ママミケシュが、寝そべった姿勢のまま、ぱたんと尾っぽを振り、
「夏星の国……。ニャンタリーゼの隣にある処だって、聞いた事があるわねぇ……」
「ニャンタリーゼ!?  虹の橋を渡った処に在るって言う『猫の王国』でしょ! こんな若者が行くべき場所じゃニャイでしょう!」
 ララ姉御が頭だけこちらへ向け、怠そうに伸びたまま言う。
「夏星の国は遥かに遠く、行くは逃げ水を追い駆けるが如し」と、ドビッシーが、詩を朗読するように言いながら、身を起こし、
「何かの本に、最高天界から更なる上方に『夏星の国』が在ると書いてあったがにゃあ」
「そんにゃ訳の分からん処の話より、そっちの若いの! お前は、何猫だ? 全く以て見た事のニャイ毛色だぜ?」
 ポニーも身を起こし、こちらへ向くと、しげしげとサキを見詰めた。サキは少しイカ耳になり、もじもじしつつ小生の顔を窺う。
「学園都市のお嬢様の飼猫だったのなら、ネオサーバルじゃニャくって?」
 ママミケシュがサキの方を見遣りながら言い、ドビッシーが、
「然様に見えますにゃあ。自然保護区の草原にサーバルキャット——猟犬猫と称される、大山猫のようなのが居る。それは、姿は美しいが気性が荒いので、海底都市の研究室で遺伝子操作とやらと言う胡乱な事を仕出かして、人間が造った新猫種がネオサーバル。気性は穏やかで人懐っこく、身体は大きめの飼い猫と、本で読みましたにゃあ」と、説明を加えた。
「ああ! それって、とってもお高い『売り猫』ね! 公園へ遊びに来る猫好き人間達がこの前、話してたにゃあ。自分達の一年の給料分より高い値段だって!」と、ララ姉御も起きて、サキの方を向く。
「ふーん! ニャンでそんにゃ『お高い奴』が、生粋自由猫のマヨと一緒に歩いてんだ?」
 ポニーは更に、身を突き出すようにして、サキをじーっと見る。
 皆の視線が集中するサキは、イカ耳を更に強めて、とつとつと語った。
「お嬢様に連れられて、空中都市の空港へ初めて行って……。お嬢様のお帽子が飛ばされて……。僕、反射的に追って……。走って、走って、やっと捕まえたら、お嬢様が、見えなくなっていて……。お帽子持って、お嬢様を探して必死に走っていたら……、そうしたら、目の前へ、白い大きな猫が現れて、『ここへ居たら、飛行機に轢かれてしまいますよ。そっちへ行きなさい』って……。で、押されて、そうしたら……。それで……、その、気が付いたら、そのう……、マヨさんが居て……」
「それは、吾等が初源の白猫様が見かねて、マヨの処へ託したって事にゃのかしらね?」と、ママミケシュが優しく微笑み、
「確かに。『猫は、己の道を歩く生き物。己の欲する方へと進むべし』ですからにゃあ」と、ドビッシーがゆっくりと頷く。
「要は、サキは自分の目的地へと、長い長い、長旅を続けるトラベラーだってことね!」
 ララ姉御が笑顔と共に、お尾っぽを大きく左右に振った。
「ニャル程、そっか! じゃ、此奴が自己意志で『夏星の国へ行きたい』と、言っているのだから、助けて遣るべきじゃニャイのか? ‘道開き猫マヨ’としては!」と、ポニーがこちらを向き、肩を竦める。
 小生はふっと、極小さな子猫の時、迷子になり見た、純白の、ふわふわの、心地よさそうな長毛の大きな尻尾と、聞こえて来た「さっ、歩きなさい。猫は、己の道を歩く生き物です。しっかりと足を踏み出して、自分の行きたい方へと進むのです」と、言う優しい声を思い出す。
「そうですにゃ。髭触れ合うも多少の縁と言いますから、天空界の知り合いの所へサキを連れて行って、夏星の国への行き方、訪ねてみます。お休みのところ、お邪魔しました」
 頭を下げる小生に、ママミケシュが、
「マヨ。先ずはその子に、自由猫・狩猫の基本を教えて遣るべきね! で、ニャイと、旅猫にニャレないし、長旅なんて、到底無理よ!」
「確かに、言われる通りです! サキは、蝉すら見た事がなかったようですから……」
 小生はサキを見遣る。もう子猫ではない世間知らずの若猫に、地上の暮らし方と猫道歩きを教えなければならないのかと思うと、心中で長嘆息が漏れた。


 サキの狩猫修練もつつがなく終わり、遂に、最高天界へと行く日が来た。
 地上の猫の森と、猫の草原「猫じゃらしヶ原」との境に在る泰山木の根元。そこに、最高天界への猫道「地天最古道」の口が在る。小生一猫ならば、爪引っ掛け跳び——余談ではあるが、御存じ無い向きに申し上げておくと、「爪引っ掛け跳び」とは、別名「スキップ走り」とも云われ、猫が常時通行する安定した道に於いて、猫道滞在時間を短縮する‘「道短縮運歩方」の一つである——で、最高天界猫森の巨樹根元へ、一瞬で辿り着ける。だが、猫道歩き経験の浅い、と言うよりも、ここ数日でやっと猫道歩きが出来始めたサキでは、地天最古道はまだ、しっかりと足で歩かざるえないだろう。
「サキ。これから、最高天界への道——地天最古道を歩く。ずっと登り道で、時間が掛かるから、覚悟して付いて来いよにゃ!」
「はい! 心して頑張ります!」
 サキは、ぴんと耳を立て、髭を左右に大きく広げ、しっかりと頷いた。
 猫世界の最高天界は、空の中道を歩いた処に在る。入道雲のようにもこもこっと高空に浮かんだ森だ。泰山木の根元から続いていた道は、この浮かんだ森の中の巨樹の根元へと続いている。
 その巨樹の根元へ辿り着いた時には、サキはかなり疲れたのか、肩で大きく息をしていた。
「あと少し頑張れ! 水が飲める所があるからにゃ!」
 少し進むと、森の中にぽっかりと開けた所が現れる。最高天界猫広場だ。その中の古代建物らしき物の残骸の縁に泉がある。
「さっ、ここだ。飲もう!」
 サキは直ぐ様、泉に鼻先を突っ込むようにして、ごくごくと飲み始めた。小生も、少し喉を潤していると、
「あにゃ! マヨじゃにゃいか!」
 後ろから知った声が掛かる。有翼猫のホキだ。
「よかった、ホキ! 君を訪ねようと思っていたところにゃんだ。訊きたい事があって……」
「へ? 俺なんかにか? わざわざ? 俺に分かる事なら、何でも教えるけどにゃあ」
 小生は、横にいるサキへと視線を向け、
「実は、彼はサキと言う飼い猫で、飼主のお嬢様が『夏星の国』って処へ行くってんで、自分も行きたいって、夏星の国が何処にあるのかを探しているんだよにゃあ……」
「夏星の国……。聞いた事はあるニャ。神族は、そこから来たって。で以て、神族の最高天界から夏星の国へ続く道があるってにゃ。」
 サキは身を乗り出し、
「神族の最高天界?そこへは、どうやって行けばいいのですか?」
「俺達有翼猫は、本気、行く気にニャレば、気流を見計らって飛んで行くけどにゃあ。じゃあニャイ猫は、猫道を通らニャイとにゃあ! 人間が『ヴュルラク』と呼ぶ、第四気団に在る島の古井戸の傍に道の入口が在るって聞いた事があるけどにゃあ……」と、ホキはやや首を傾げ、
「あそこには、遺跡研究者に加えてハンターも出るって話だから、俺は行った事ニャイから、詳しい事はにゃあ」
「えっ!? ハンター? 猟師がいるんですか? 猫も狩るんですか? その猟師は……」
「いやいや! 動物を狩るんじゃなくって、泥棒を狩る奴の呼び名だよ。あそこの遺跡には、人間が空中都市を浮かせる為に造っている装置にも使われてるって言うレアメタルのアヴィリオンってのが転がってるから、盗みに来る輩がいるんだと! 翼も無い、猫道も歩けない人間って奴等は、装置ってな機械に頼りっ切りだからにゃあ」
 ホキは、鼻の上に皺を寄せて、ふふんっと笑った。
「まあにゃ、泥棒もハンターも研究者も、猫の事ニャンんて気にしてニャイから、こっちも気にする必用はニャイよ。人間に近寄りさえしなければいいのさにゃ。で、マヨも、夏星の国へ行く気ニャのか? マヨだったらやる気になれば、神族の最高天界への直通道だって、開けるんじゃニャアかにゃあ……」
「いやあ、小生はそこまでは……。妹達の世話もあるから」と、ややイカ耳となり、
「申し訳ニャイけど、ホキ。実は、君に、サキのこれからの事をお願いしようと思って訪ねて来たんだ。そもそもに、サキは生まれながらの専業飼い猫だから、猫世界の事を全く知らないからニャア……。神族の最高天界へ行く前に、天空猫界の則や掟を学んでおくべき、だろ?」と、上目遣いにホキの顔を窺う。
「ま、それが順当だわにゃあ。身体に付いては、『人間が空中都市の水を一日飲めば、水に染まる』って言われてるのと同じで、天空の猫森の水を飲めば、大事ニャイけどにゃあ。専業飼い猫だったら、狩りの方は……?」
 懸念顔を見せるホキへ、小生は、
「それは、大丈夫! サキは、サーバルキャット——猟犬猫って称される山猫の血を引いてるだけの事はあって、ちょっと教えたら、地上ではもう一人前で通る狩猫になったよ。それに、ジャンプ力が物凄いから、名うての‘鳥獲り猫’に成ると思うにゃ!」と、大きく保証の頷きを向ける。
「そうか! ニャラいい。先ずは、俺達の猫の集会へ連れてって、皆猫(みんな)に紹介してやるぜ! サキの行きたい場所の在りか探しも、それからって事だにゃ」
「済まニャイにゃあ、ホキ。よろしく頼む」と、頭を下げる。
「他ならぬ『道開き猫のマヨ』の紹介猫だ! 任しとけよにゃ!」
 胸を張り、大きく頷くホキ。その前へ、サキは、背筋を伸ばして正座し、
「よろしくお願いいたします」と、神妙な顔で頭を垂れた。
「それじゃ、小生はこれで、帰るからにゃ。元気で、頑張れよ! サキ」
 大きく尾っぽを振って挨拶し、小生は、巨樹の猫道口へと引き返す。それから、ひょいっと爪引っ掛け跳びで、一っ跳びに猫じゃらしヶ原へと帰った。
 夏本番の草原は、ネコジャラシが一斉に穂を出し、恰も、鮮やかな萌黄色絨毯を広げたようになっていた。空には宵の薄闇が漂い、星々が瞬き始めている。
 果てし無く広がる天空を見上げ、きらきらと輝きを増す遥かな天の川に思う。
「トラベラーサキは、立派な狩猫——『サーバルサキ』と成り、きっと、夏星の国へ行き着ける」と。
 そして、サキは出会うのだ。金色に輝く羽を持つ神族猫の血を引く彼女——毛色は白銀。ヒマラヤンのようにふこふこの柔らかい長毛で、ふわふわの太長尻尾。丸顔で可愛く少し耳垂れで、赤っぽい桃色の素敵な瞳の「シルビア」と言う名の、優しい彼女に。
 小生は、塒へ向け猫じゃらしヶ原を、とっとこ歩き出した。
 歩を進めるに連れ、「何時の日か、小生も夏星の国へ行ってみたい」と、言う気持ちが夏空の入道雲のように湧き上がって来る。
「小生が夏星の国を訪問する頃には、あの麦藁帽子の中に、サキとシルビアとの子供達が、ぎゅうぎゅうに詰まって、猫団子寝をしてるんじゃニャイかにゃあ!」と、ひとりごち、思わず知らず、口元が綻びていた。

みせてあげる by あかいかわ

作:あかいかわ
分量:13枚  使用お題:帰省ラッシュ、蝉時雨を聞く、蚊取り線香、ゲリラ豪雨、暑さを凌ぐ、海底、溺死者、日焼け止めの匂い、向日葵(ひまわり)、麦わら帽子、親戚の家、熱に倦む、旱(ひでり)星、お盆、麦茶


 ふいに面白いことを思いついた目つきで僕を見つめる。麦茶に入っていた氷がいまは口の中で頬を膨らませている。音もなく近づくと唇に吸い付き、器用に氷を僕の口の中へと押し込んだ。冷たさが移る。名残惜しそうに少しだけ舌先を触れさせて、笑いながら体を離した。
 たぶん僕はずっと無表情のままだった。

   †   †   †

 彼女の体は新雪のように冷たくて、熱に倦む夜、暑さを凌ぐにはとても役立った。
 もう死んでるもんね、と彼女は言った。海で泳いでて、足がつって、溺れて死んじゃった。あはは。
 でも彼女の説明する死因は日によって違った。病死。事故死。衰弱死。自死。傷害致死。焼死。墜落死。なんてことだろう、この世界はあまりにたくさんの種類の死で溢れている。

   †   †   †

 保存するには冷たい方がいいんだよ、と彼女は言った。

   †   †   †

 お盆明けの帰省ラッシュを体現するように、車内に空席はひとつもなかった。子供連れが多くて、甲高い声があちこちで響いていた。麦わら帽子が踊り、親戚の家で持たされたお菓子を分け合っていた。動き出す車窓の向こう側を僕は見つめていた、それ以外にすることもなかったから。
 長い乗車時間のあいだ、一度だけ席を離れた。電話を入れる用件があった。戻るとき、ふと乗客のひとりに目が止まった。制服姿の女の子。家族を伴わず、彼女はひとりきりで乗車しているらしかった。両隣の乗客は、彼女と関わりを持たないように思えた。もちろんそんな確証はどこにもないはずなのに、ごく自然とそう思えたのだ。
 携帯電話に向けていた視線を、ふいにこちらに向けて目が合った。まるで知り合いに対するときのような、親密な笑みを彼女は送った。僕は驚いてろくに応答もせず通り過ぎた。座席に座って、相変わらず高速度で流れ続ける窓の向こうの景色を眺めながら、僕が見ていたのは網膜に焼き付けるその景色ではなくて、謎めいた女の子の微笑だった。

   †   †   †

 ノートパソコンで作業をしていると、いつの間にか音もなく忍び寄ってきていて、遠慮のない勢いで僕の体にのしかかってきた。ケタケタと嬉しそうな笑い声をあげる。
 でも、重くない。小柄で華奢な彼女はもちろん一般的な意味で重くないことは分かりきっていたけれど、そうじゃなく、そのレベルをはるかに超えて軽かった。軽すぎた。人間ひとりのしかかっているはずなのに、僕が感じた重さはねこか、よくて小型犬といった程度のものだった。
 だってわたしはもう死んでるもんね。
 死んでも重さは変わらないよ。
 僕の反駁に、謎めいた奥行きのある笑みを浮かべて彼女は両腕を僕の首に回した。捨ててきたんだよ。耳元で、湿り気を含んだ吐息を絡ませるやり方でささやいた。邪魔なものは捨ててきた。余分な肉は海の底に沈んでるの。わたしの売りは身軽さだよ。あんなものはいらないの。
 ともかくこの日の彼女は「溺死者」パターンであるらしかった。

   †   †   †

 要らないものは何かと尋ねた。
 肝臓。腎臓。膵臓。脳の左半分。胃袋。小腸。大腸。そして子宮。
 というのが答えだった。

   †   †   †

 目覚めたとき、彼女は僕の手を取って、指の一本一本を舌先でちびちびと舐めていた。
 美味しくないと思うよ。僕は寝ぼけた声で言った。あと、くすぐったい。
 勝手に起きないでよ。珍しく彼女は不機嫌そうな声だった。それだけ言うと、またせっせと僕の指を舐め始めた。一定のテンポで、生真面目に、丁寧に、しつこく、彼女の舌先は僕の指をくすぐり続けた。
 くすぐったさに耐えつつ、スティックキャンディのように自分の指が徐々にすり減らされてしまう光景を、僕は思い浮かべた。でも、なすがままにされていた。仮にそのようになったとしても、それはそれで素晴らしいことのように、僕には思えたから。

   †   †   †

 制服の下には向日葵の写真がプリントされたシャツを身につけていた。かわいいね、と僕は言った。
 わたしとどっちが? 悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女は尋ねた。
 決まってる、と僕は言った。そんなことは決まってる。でも彼女の求めたその答えを、僕は最後まで言わなかった。

   †   †   †

 降車する客の列に加わると少し前に先ほどの女の子の姿があった。背中に背負った褪せたレモン色のリュックサックが彼女の唯一の持ち物で、しかしその中身は大してなさそうに見えた。彼女はやはりひとりだった。話をするものも、寄り添うものもいなかった。
 新幹線を降り地下鉄に乗り換えるのが僕のルートだった。プラットホームの階段を降り、左手の改札を抜け駅の広間を突っ切り地下鉄駅構内に通じる長いエスカレーターを降る。その道のりを、女の子は僕に先んじて同じように進んでいった。地下鉄の自動改札を抜け階段を降り電車の到着を待つ、その電車の行き先も僕と同じものだった。彼女は僕を振り返ったりはしなかったし、それほど近い距離を歩いていたわけでもない。それでも僕は、自分がこの女の子を尾け回しているように見られるのを恐れて、彼女と離れた別の車両の列で電車を待った。彼女の姿はすぐに人ごみの中に消えた。
 到着した電車に十五分ほど揺られ僕は僕の住処の最寄駅に着いた。喉が渇いたので、自動販売機を探してペットボトルの水を買った。電車を降りた乗客の一群は大方去っていた。僕はのんびりと階段を登り地上へと上がった。改札を抜け、出口方向へと目を走らすと外は激しい豪雨に見舞われていた。夕方頃ゲリラ豪雨を警告する今朝のニュースを思い出した。傘はある。でも折り畳みの小型の傘で、轟音を立てるこの雨の中を守ってもらうにはやや心もとない大きさだった。しかし、まあいいだろう。僕は傘を組み立てながら出口の方へと足を進めた。いくらか濡れてしまうとしても、もうどうせ自宅に着くのだから、さっさと着替えてしまえばいいのだ。
 駅の出口では傘を持たず途方にくれて雨模様を眺める人たちがいた。その中に、あの制服姿の女の子がいて、そして笑いながら僕の方へと近づいてくるのだ。
 一緒に入れてよ。
 まるで気の置けない親戚の女の子のように馴れ馴れしく、当たり前のことのように、彼女は僕の傘の中に入り込んで、少しでもその恩恵にあずかろうと僕の体に身を寄せた。僕は当然混乱した。でも彼女の行動は絶対的で、迷いがなく、それに抵抗するのは間違ったことであるかのように思わせる強さがあった。彼女が馴れ馴れしいふりをするのであれば、僕もそれを受け入れるふりをしなければならない。そんなふうに僕は思ったのだ。
 いや、言葉を飾る必要はないのかもしれない。彼女は可愛かった。それだけ言えば十分なのかもしれない。

   †   †   †

 不必要な何もかもを焼いてきたのだと彼女は言った。この日の彼女は「焼死」パターンだった。
 大きな炎を作って、と彼女は説明した。そこに要らないものをとにかくたくさん投げ込んだの。ノートとか、体重計とか、トイレットペーパーとか、お母さんとか。それでいっしょに余分な肉も放り込んでおいたのね。こう、お腹からずるずるっと取り出して、じゅーじゅー焼いて。あはは、ホルモンみたいだね!
 どうやって取り出したの、と僕は尋ねた。
 簡単だよ、包丁でお腹に穴を開けて、手を突っ込んで取り出すんだよ。ちょっと傷が残っちゃうけどね、そんなに大きく切り裂く必要はないんだ。みせてあげようか?
 いまはいい、と僕は断った。

   †   †   †

 遠くで太鼓の音が鳴っていて、そのリズムに合わせて、彼女は握る手の力を込めた。その手は少し汗ばんでいた。ふたり並んで寝そべって、くぐもった祭囃子が混じる蝉時雨をぼんやりと聞いていた。窓は開け放していて、ときどき風が入った。蚊取り線香の煙がそれに合わせて揺れ、かすかな香りが鼻をついた。
 今年は雨が降らないね、と僕は言った。暑い。
 そうだよ、と彼女は答えた。決まり切った物事を言うようなその口調に、かすかに違和感を覚えたけれど、特に何も言わなかった。相変わらず太鼓の音は続き、そのリズムに合わせて、彼女は握る手の強さを変えた。視線を移すと、すぐ目の前に彼女の顔があった。その瞳は天井のどこかをじっと見つめていた。
 今年は旱星が強いから。
 あてもなくつぶやかれたその言葉の意味を、僕は全く把握することができなかった。

   †   †   †

 でも、ゆーちゃんだって捨てて身軽になった人なんでしょ。馬乗りの姿勢のまま、僕を見下ろす角度で彼女は言った。さて、何を捨ててきたのかな? 嬉しそうに笑う彼女の顔が、ゆっくりと、僕に近づく。

   †   †   †

 久しぶりに目にする故郷は記憶のものよりも小さく感じる。そんな一般論を蹴散らすように、数年ぶりに目にする駅前の街並みはにわかに発展していた。見たこともない商業ビルが出来上がり、子供の頃にはなかった活気が駅前のエリアにみなぎっていた。再開発は成功を収めているようだった。真新しい舗装や時計台は僕の記憶の中の光景を排他的に塗り替え、あるひとつの命題を僕に説き伏せようとしているようだった。ここはもう、お前の街じゃない。

   †   †   †

 この街のどこかにまだいるんだろうか。
 駅前のレンタカーで車を借り、広い市中をあちこち回った。何かあてがあったわけじゃない。記憶に残るかすかな風景だけを頼りに、その場所へと足を運び何かを求めるようにその場にしばらく佇んだ。でもほとんどの風景はどこかが致命的に変わっていた。僕の記憶と完全に合致する場所はどこにもなかった。そのことが、僕の記憶自体への信頼を失わせた。すべて嘘なんじゃないか。その迷いが喉を締め付けるように膨らんだ。あのすべては、僕の空想が生んだでたらめにすぎないんじゃないか。
 結局、思いつくすべての場所に足を運んでも、決定的な何かを掴むことはなかった。新たに足を運ぶべき場所がひとつもなくなってしまったとき、僕は途方にくれた。ここへ来ればすべては解決してくれるものだと望みをかけていたのに、その期待は裏切られ、僕はいままで以上にあいまいな立場に立たされてしまった。確かなことは何ひとつ思い出せなかった。場所こそがすべてを解決してくれるはずという僕の見込みは、間違っていたのだ。
 では、否定しなければいけないのだろうか?
 いつかまた会えるはずだと思っていた。そうじゃないのかもしれない。何もかも、初めからなかったことなのかもしれない。そのことを、僕自身ずっと前から気付いていて、でも結論することを先延ばしにして、誤魔化していただけなのかもしれない。だから僕はこんなにも長い間、この街に戻らなかったのだ。
 いつかまた会えるよ。その言葉はいまも耳に残っている。ずっと残って、僕を支配し続けてきた言葉だ。僕はずっと待っていた。そういう幸福が先にあることをエクスキューズにして僕は生き続けてきた。それがなくなってしまったいま、僕が取るべき道は、ひとつしかないんじゃないだろうか?

   †   †   †

 かぐや姫はいいよね、遠いって言ったって月だもん。いまや行けない距離じゃない。でもわたしは、あの旱星。五百光年も先の星へなんて、誰も行けない。今年は旱星が強い。それって、そういうことなのかな。

   †   †   †

 その白く薄いお腹に包丁で切り開いた傷口はどこにもなかった。綺麗でなだらかな皮膚が、裂け目無く綺麗にその胴体を覆っていた。
 僕は架空の傷口に唇を這わせた。吐息のような彼女の声が漏れる。意味なんて、どこにもない。

   †   †   †

 子供の頃遊んだ女の子には、翼があった。彼女に抱きかかえられて、僕はあちこちを飛び回った。俯瞰して眺める街の光景はいまも僕の脳裏に焼き付いている。
 彼女と遊べるのは夜遅くになってからだった。誰もかれもが寝静まる時間、僕たちは家を抜け出してこっそり遊んだ。背の高いマンションの屋上に忍び込んで、そこから夜の空へと飛び立つ。それは本当にあったことなのだ。彼女と眺めたいろいろな光景を、僕はいまも、鮮やかに記憶している。

   †   †   †

 みせてあげると彼女は言った。僕は首を横に振った。それでも彼女は、ゆっくりとシャツをめくりその肌を露出させた。

   †   †   †

 部屋に入るなりのどが渇いたと訴えるので、僕はグラスに氷を入れ麦茶を注いだ。床に座った彼女は当然のことのように濡れた制服を脱いでいた。僕はタオルを手渡した。服はハンガーに掛け、とりあえず部屋の中で吊るしておいた。
 外はまだ豪雨が続いていた。激しい雨音に取り囲まれ、部屋は孤立性をいつもよりも高めていた。彼女の存在はその孤立感を弱めはしなかった。音もなく麦茶に口をつけてから、ごしごしとタオルで髪を拭いていた。入念に、執拗に、その動作は繰り返された。

   †   †   †

 ねえ、嘘つきには嘘つきがわかるんだよ。そう言って彼女は笑った。いままで見た、どんな笑顔より、それは屈託のない笑顔だった。

   †   †   †

 じゃあまたね、と彼女は言った。僕は小さく返事した。のどの奥から漏れる、うなり声のような返事だ。外はよく晴れていて、気温はますます高くなりそうだった。入念に塗り込んでいた日焼け止めの匂いが、かすかに漂って僕の鼻先を刺激した。
 いつかまた会えるよ。僕の目を見て彼女は言った。その言葉の意味するものを、僕はよく理解している。
 元気でね。僕は精一杯の気安さを装って別れの挨拶にした。でもその表情は固まっていた。それを見咎めた彼女は指を伸ばし、僕の左側の頬をつまんで無理やり口角を上げさせた。形の歪んだ唇に、自分の唇を押し付けた。その時間は長く続いて、でも唐突に終わると、何も言わずに踵を返して玄関のドアを開けた。ドアはすぐに閉まり、彼女の姿をとどめるものは、それでもう何もなくなった。

   †   †   †

 彼女のこともやがてあいまいになって、その実在が疑われるのかもしれない。僕は不安になった。何もかもに脈絡がなくて、嘘だらけで、支えというものが彼女にはなかった。残っているものは彼女に触れたその感触と、見え透いた嘘と、そして奥行きのある愛おしくも謎めいた微笑みだけだ。
 でも、ともかく、それがどんなに頼りなく不確かで有効期限がどれほどのものなのか心もとないのだとしても、新しい啓示は僕に与えられた。いつかまた会えるよ。その言葉は僕を支配し、先の幸福を予感させ、生き続けるエクスキューズとして機能してくれることだろう。
 元気でね。

千客万来 by 和

作:和 HP:なごみのお茶屋さん
分量:23枚  使用お題:蝉時雨を聞く、汗を拭う、暑さを凌ぐ、二度目の水浴び、川遊び、向日葵(ひまわり)、麦わら帽子、茄子のぬか漬け、麦茶、打ち水をする


 都心から電車で五時間ほど離れた、とある田舎——村の小学校の近くに小さな店がある。
 文房具・雑貨屋を兼ねたその駄菓子屋は昭和の初めから続く店で、古くから村の人の生活を支えていた。聞けばそのお店は私の曾祖父が開いたものだと言う。
 私が二代目である母方の祖母からこの店舗兼住居を継ぎ、幼子のシキと暮らし始めたのが四年前のこと。
 根っからの都会育ちの私にこの店が務まるかどうか、初めは不安だった。
 店の経営なんて初めてだったし、シキはまだ幼くて我儘で、実際かなり手を焼かせられたし。
 物理的な不便さ、閉塞的で濃厚な人付き合い。
 でも、そんな慌ただしさや変化は日を追うにつれて当たり前となり、日常へと昇華する。
 気がつけば私は身も心もこの村に溶け込んでいた——


 私の一日は夜明けとともに始まる。
 この日一番の仕事は庭の畑にある野菜の収穫だった。
 今の時期は茄子とピーマンがいい頃合い。朝露に濡れた葉や茎はざらさらしていて、触ると猫の舌を触っているかのよう。
 対照的に実りのすべては、つるんとしてまるまる太っている。その肉付きに手ごたえを感じた私は、丁寧に野菜を獲っていった。
 籠いっぱいの野菜を抱えて家に戻り、朝餉の準備を始める。
 朝は白米の握り飯に胡瓜と茄子のぬか漬、卵焼きに豆腐の味噌汁だ。私は出来たおかずを手際よく皿に分けていく。
 自分のぶんと、シキのぶんと、小さな小皿は仏様のお供えの分。
 先に自分の朝ごはんを腹におさめ、私は仏間へと向かう。座敷ともいわれるそこは八畳の和室だ。襖の奥にはまた同じ広さの部屋が続き、そちらは奥座敷とも呼ばれている。
 ご飯と茶を供え仏壇の御鈴を鳴らすと、襖ががたりと揺れた。奥座敷から齢六つの女の子が現れる。下着姿のまま、お腹すいたと訴えてくる。
「ごはんちょうだい」
「はいはい」
 私はお供えと一緒に持ってきた盆に手を伸ばし、握り飯をシキに渡した。空きっ腹のシキは夢中でそれにかぶりつく。
「ゆっくり食べなさい。麦茶も飲むのよ」
「卵焼きは?」
「ちゃんとあるから——って、三郎駄目っ!」
 私は思わず声を上げた。何時の間にいたのだろう。座敷に大きな猫が上がり込んでいて、まさに卵焼きに前足をのっけようとしていたのだ。
 山猫の三郎はシキの親友だ。でも食い意地が張っていて、すぐに人の食べ物をとってしまう。 
 私は三郎を追い払おうと手を差し伸べる。
 その前にシキが三郎の顔に張り手をくらわせ吹っ飛ばした。猫の、鋭い声が耳をつんざく。
「これはシキのぶんっ!」
 卵焼きの皿を抱えるシキを三郎は睨んだ。低い声でふぅ、と威嚇したがシキも負けていない。うぎゃあ、と大きな口を開けて対抗する。
 私はひと騒動が始まる前に、かつおまぶしたっぷりの猫まんまを置いた。すると効果てきめん。三郎は鼻をひくつかせたあと、まっしぐらに猫まんまを食い始めたではないか。
 一人と一匹の豪快な食いっぷりに私は一息つく。平穏が再び訪れた所で、私は改めて、先代をはじめとする仏様たちに手を合わせた。 


 ——雑貨屋を兼ねた駄菓子屋は毎朝七時半に開店するのが先代からの習わしだ。
 店に入った私はまず、釣り銭を引き出しに仕舞う。そして商品の上に被せた埃よけの布を取り払い、部屋の隅にある籠の中へ放り込んだ。
 品物の数と種類を目視し、変わりないことを確かめる。最後に立て付けの悪い硝子戸を開けた。
 朝日が一気に差し込み、店の中が急に色づいてくる。
 正直、開店直後に客の出入りはほとんどない。学校がやっていれば、学生の誰かが文房具を買いに来ることもあるけれど、今はそんなこともない。事実上の開店休業だ。
 まぁ、誰かしら来れば大声をあげて呼びにくるだろう。
 私は店の前で打ち水をすると、早々に奥の部屋へとひっこんだ。
 ギシギシと音を奏でる廊下を渡り住居のある離れへ足を運ぶ。手前の台所を素通りし奥の座敷へ向かった。
 八畳部屋は相変わらず玩具で散乱している。部屋の主であるシキの姿はなかった。もしかしたら、三郎と庭で遊んでいるのかもしれない。
 遊ぶなら片づけくらいして欲しいわ。
 私は小さく息をつくと、散らかった玩具を戸棚の上に並べていった。
 どんぐりの独楽にブリキねずみのツンとクェ、ねじ巻き兵隊のジョバンニは片足をあげたまま絶妙なバランスを保っている。
 これらの玩具は私が昔から使っているもの。名前も全て私がつけた。シキは私の思い出の品をとても可愛がってくれている。
 畳の上が綺麗になった所で、私は箒を動かした。塵と埃を縁側の先へと追いやる。最後に、床の間に置いてある市松人形に手を伸ばした。
 大層な台座に飾られているそれは如何にも、な日本人形だ。普段はまっすぐな黒髪に着物をまとった彼女だが、全てを取り払われた今は上品な顔も台無しである。
 私は人形の側にある市松模様の小箱を開いた。沢山ある着物の中、私は白地に赤い朝顔の柄の浴衣を選び着せてあげる。ついでに髪を結ってボンを添えた。出来上がった姿は見た目にも涼しそうで、ほんのりと色香を漂わせていた。


 家事をひととおり済ませ店に戻ると油屋のおばあちゃんが店の「あがりまち」に座っていた。
 今朝獲れた玉蜀黍(とうもろこし)を届けがてら、台所で使うスポンジを探しにきたのだという。
 スポンジはすぐ見つかったが店の陳列棚にあるものは日に焼けてしまっていて使いものにならない。というわけで私は戸棚の中から新しいものを出すことに。すると、今度は上原の奥さんが殺虫剤を買いに来る。そしてそれぞれの勘定を済ませた直後、中(あたり)のおばちゃんが店にやってくる。
 三人寄れば何とやら。店頭で井戸端会議が当たり前のように始まる。しばらくして、そのかしましさにつられるように小学生たちがやってきた。
「水下さーい」
 麦わら帽子をかぶった彼らは川遊びの帰りのようで、喉が渇いたらしい。店にあるジュースを買わず、あえて水を求めるのは年頃の子どもたちならではの知恵だ。
 私は黙って湯呑茶碗に水を注ぎ、彼らに渡す。子どもらはごくごくと喉を鳴らして飲み干すと満面の笑みでごちそうさまでした、と述べた。ありがとうございます、の声色がとても清々しい。
 何時の間に居たのだろう。気がつけば奥座敷にいる人形とお揃いの、白い浴衣を着たシキがせんべいの入った角猫瓶の前に立っていた。その口にイカゲソが入っていたので私は唸る。
 店のものを勝手に食べるんじゃない。
 私はシキに向かって睨みつける。するとシキは目じりに人差し指を置き、舌を出して威嚇してきた。側にあった値札を掴むと、袖の内に隠していた赤いいマジックで何かを書きはじめる。
「あ、こら何を——」
 私が思わず身を乗り出す。すると、タイミング悪く私の背中側にいた小学生たちが勘定を求めてきた。こうなってしまってはシキから目を逸らさなければならない。
 私は泣く泣く電卓に手を添わせた。
 駄菓子屋は子どもの社交場とはよく言ったものだ。
 百円以下の少ないお金でどれだけ沢山のお菓子を買えるかが彼らのステータスであり誇りである。
 しかも十円のスナック菓子や五円のチョコだから数えるのに非常に時間がかかって仕方ない。
 三分後、お金を回収した私はやっと角猫瓶のそばにたどり着けた。そして絶句する。並べられた瓶の中の菓子全てが一円に値下げされていたのだ。
 突然のタイムセールに子どもたちが目ざとく気づく。
「おばちゃん、これもちょうだい」
「俺も」
「私も」
 シキの悪戯は今に始まったことじゃない。勝手にお菓子を漁る、くじをスカから当たりにすりかえる、値段を勝手に下げる——
 私とシキは常に攻防戦の繰り広げていて、その勝敗は今や五分五分だ。全く。今度見つけたらお灸据えてやるんだから。 
 十一時半の警報が鳴ったら子どもの集会と井戸端会議はあっさりとお開きとなった。皆これからお昼を食べに家に帰るのだ。
 気がつけば店の中にシキがいない。奥にひっこんだか、庭に出ているのだろう。
 客が一気に引けたので、私もいそいそと台所へ向かうことにした。


 今日の昼御飯は素麺だ。でもそれだけじゃ栄養が偏る。思う所があって、私は朝採った茄子とピーマンをフライパンで揚げた。氷と生姜を浮かべた麺つゆの中に浸す。
 それにさっき油屋さんから貰った玉蜀黍と切ったとまとを添えれば見た目も鮮やか。爽やかな昼食の出来上がり。
 うーむ、やっぱりたんぱく質が足りないな。
 私は冷蔵庫の中を探る。けどたんぱく質がありそうな食べものは豆腐しかない。あとは油揚げが一枚。卵は三個ほどあったけど、朝使ったから今日はもうやめておこう。肉、あとで買いに行かなきゃ。
 そう思いながら冷蔵庫を閉じると、風にのって十二時を知らせる音楽が。これは山を超えた隣町から流れてくるものだ。
 この時間差攻撃は私にとってありがたい。おかげで昼餉の準備を効率的に行うことができるのだ。
 奥座敷にある座卓に私はもろもろのおかずを並べる。
 そうめんに玉蜀黍、そこまでシキはご機嫌だった。茄子とピーマンの揚げびたしを見た途端、彼女の顔色が変わる。
「これいらない」
「好き嫌いばっかり言っていると成長しないよ」
 そう言って私は素麺をすすった。冷たく突き放す私のそばで、シキはぷうと頬を膨らませる。その頬が真っ赤に染まって行くのが目に見えてくる。
 そのうちカタカタと座卓が揺れ始め——地震ともいえる振動に私は身を強張らせる。
 心なしか、ガラスの器が膨張しているような。尋常じゃない動きに流石の私も焦りが走る。戸棚に整列した玩具たちがふわりと浮いた。
 ちょっとやりすぎたかなぁ。
 そんなことを思いつつ、私は徐々に後ずさりシキとの距離を広げ、間合いを取る。刹那、バイクの音が耳をかすめたので、私は隙を見て店へ逃げた。
「御苦労さまです」
 この時間に訪れるのは郵便屋さんだ。彼は一日に一度、店の前のポストで集荷作業を行っている。
「いつものコレ、今日も冷やしておきましたよ」
 私は店にある小さな冷蔵庫から缶コーヒーを出すと彼に差し出した。彼がキンキンに冷えたそれを受け取り、丁寧に頭を下げる。それから手持ちのタオルで汗を拭うとポケットから小銭を出す。
 この後、彼はポストの隣にあるベンチで暑さを凌ぐ。缶コーヒーを左手に取り過ごす休息は彼にとっての日課であり至福の一時らしい。
 その間、私は店のあがりまちに座り、彼が奏でる鼻歌に耳を澄ます。流れてくる楽曲は私の知らない歌だけど、どこか懐かしい。心にじわりと染みてくる。
 再びバイクのエンジン音広がった所で私は重い腰を上げた。シキの様子を伺いに住居へ戻る。
 あの八畳の奥座敷をこっそり覗けば、シキが畳の上で大の字を描いていた。近づいてみるが、ぴくりとも動かない。完全に寝落ちている。座卓にあった素麺と玉蜀黍の器は空っぽで、揚げ浸しの入った小鉢には反抗の証ともいえる緑色の物体が残されている。私のぶんの麺を食べられたのは癪だがそれでもまぁ、茄子を食べただけでもよしとしよう。
 私は小さな笑みを浮かべると、残ったピーマンを摘まんで食器を片した。
 太陽は一日で一番の高さまで昇り詰めてゆく——


 三時を過ぎると、再び子どもたちが店に集まった。そのほとんどはプール帰りの少年少女たちだ。その中には午前中に見かけた顔もちらほら。二度目の水浴びは彼らの肌を小麦色に焼き付けていた。
 店の温度計はすでに三十度を超えていた。
 こんな日はかき氷がよく売れる。今日の一番人気はいちご味。私が冷凍ケースから氷の塊を抱えると、子どもたちからおお、の声が広がる。
 昔ながらのごつい機械にセットし、ハンドルを回す。ガラスの器に白い雪が舞うと歓声と拍手が湧いた。
 よしずの立てかけられたベンチに
 私は求められるがまま、ひたすら氷を削っていく。
 そして何個目かの氷の塊が半分以下になり、いちごのシロップが底を尽きかけると、今度は中学生の男女が訪れた。どうも様子がおかしい。女の子は肩を震わせ、顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげている。そして男の子は何処かキレ気味だ。
「だーかーら。もう泣くな」
「だって……」
「だってもくそもあるか! 駄目なものは駄目なんだよ」
 少年の一言が少女の傷ついた心をえぐる。なかなか泣きやまない少女の姿を見て小学生たちが騒ぎ始めた。
「あー女の子泣かせてる」
「いじめだいじめだ」
「うるせえ! ガキは黙れ!」
 少年は小学生たちを一喝したあとで私を見た。いちごのかき氷をリクエストされ、私は思わず頷く。だがシロップが足りない。 
 私はない頭をしぼった。妙案を思いつき離れの台所へ走る。すぐに戻って急いで氷を削り器に持った。少年少女が座るテーブルの前にそっと差し出す。
「食え」
 少年は言った。少女が鼻をすすりながら、ゆっくりと顔をあげる。
「おまえ、いちご好きだろ」
 厳密にはいちごの練乳かけである。でも少女はスプーンで氷を削り、少しずつ口に運んだ。
「うまいか?」
「ん」
 ……やや落ちついた所で、少年はとつとつと話し始めた。
「そりゃ、アイツが部活辞めるのは俺も納得いかないよ。でも、アイツは自分なりに考えて結果を出したんだ。俺らが邪魔する権利はない。それはおまえもわかってるだろ?」
「ん」
「なら、潔く認めてやるのが俺たちの務めってもんだ」
「でも。アイツが居なくなったら部活はどうなるの? 二人だけじゃ部活動として承認されないし」
「また募集すればいいだろ? 誰も入らないなら同好会でもすればいい。どっちに転がってもおまえには俺が一生ついていてやる。だから。それで我慢しろ」
 少年の言葉に少女はしばらくきょとんとしていたけど、そのうち頬が目の前のかき氷の色に染まっていった。そっぽをむいた少年の、怒ったような、少し照れくさそうな顔がまぶしい。
 こんな甘酸っぱい雰囲気に周りが騒がずにいられない。店内はしばらくの間黄色い歓声と囃子声で包まれていた。


 五時の鐘が鳴ると子どもたちはみんなそれぞれの家へと帰っていく。
 店に人がいなくなったので私もシキを連れて買い物に出かけることにした。ごく近所なのであえて鍵はかけず、ガラス戸だけ閉めて出発する。歩きはじめると山猫の三郎があとについてきた。
 バス通りの先にある冷房の効いたスーパーで、私はひき肉を買った。今日はハンバーグにするよ、とこっそり伝えるとシキの目がキラキラと輝いた。
 ハンバーグは偉大だ。言霊を述べるだけでシキの機嫌が良くなる。野菜を細かく切って肉の中に隠してしまえば野菜嫌いのシキも何ら問題なく食べてしまうからだ。
 帰りは行きの道をたどらず、スーパーの裏から遠回り。帰りはシキが私のずっと先を歩いている。帯の蝶々がふわふわと揺れていて、ご機嫌なのがすぐわかる。
 店の裏には楽園が潜んでいた。それは一面に広がる太陽の花。畑の一角に植えた向日葵の群れはこのへんに住む人が道楽で植えたものだ。
 シキはこの向日葵畑が大好きだ。
 土手を駆け下りるシキ。自分の背丈以上もある黄と緑の海に飛び込む。三郎とおいかけっこを始める。シキや三郎がすり抜ける度にざわ、ざわと揺れる。
 大輪の花弁は夕陽を浴びてキラキラと輝いていた。
 このぶんだと明日も良い天気になりそうだ。 
「そろそろ帰るよー」
 頃合いをみて、私は声をかけた。向日葵の森から一番に出てきたのは三郎。続けてシキがのろのろと現れた。シキの足取りは途中、名残惜しそうに振り返り、ゆっくりと私のもとへやってくる。
 私は足元にすり寄る三郎を抱えた。
「またね」
 シキが空を仰ぐと、それに応えるように優しい風が吹いた。向日葵畑をぐるりと一周駆け抜けてから、夕陽に溶けていく。
 一時の静寂が訪れる。
 蝉時雨が再び戻ると、私の腕の中にいた山猫は前足をだらんと垂らしていて、すっかり生気を失っていた。 


***

 ——時は夕方、駄菓子屋の主が店を空けている頃に戻る。
 店の前には先ほどかき氷を食べた少年少女が困ったような顔をしていた。
 どうやら二人は店の中に忘れ物をしてしまったらしい。
 何度も言うが、この店は鍵がかかっていない。だからいつでも中に入ることができる。このままこっそり忘れ物を取りに行くこともできた。だが二人には主の居ない店内に入る勇気がなかった。
「……ここってさ、時々不思議なことが起こるよね? おばさん一人しか居ないはずなのに、部屋の奥から物音しない?」
「子どもの笑い声とか?」
「いつだったか、猫のぬいぐるみが急に飛んできたこともなかった?」
「あったあった!」
「——それはぼっこのせいさ」
 彼らの会話を耳に挟んだのか、さっきからベンチで煙草をふかしていた老人がぽつりと呟いた。
 少年少女が思わず振り返る。
「ぼっこ? ぼっこって?」
「座敷ぼっこ(童子)のこと?」
「そう。ぼっこは悪戯するが、福の神だ。ぼっこの居る家は栄える」
「まさか」
「事実、この店は繁盛している。先代のばあさんが亡くなって、その先の小学校がなくなって、バス通りの反対側にでかいスーパーができても、潰れやしない。
あの店は品数も少ないし値段もそんなに安いわけじゃない。けど、みぃんなあの店に足が向いちまうんだ。なんともけったいなことさ」
 老人が吐き出した紫煙がふんわりと風に乗って道の果てへと飛んでいく。
 その先に、店の主の姿が見えた。
 左手にスーパーの袋を引っ提げ、脇に猫のぬいぐるみを抱えている。
 彼女の右手は宙ぶらりんで——でも何かを優しく掴んでいる。
 それはそれは、とても愛おしそうに。

花束ではなく、火の束をあなたに by かみたか さち

作:かみたか さち
分量:30枚  使用お題:麦わら帽子、蝉時雨を聞く、蚊取り線香、汗を拭う、ゲリラ豪雨、花火、日焼け止めの匂い、向日葵、旱星、お盆、麦茶


 暗い大地から生える光の花。か細く咲き、にわかに消えるその花を求めて異世界へ旅立った姉のフラウは、それきり戻ってこなかった。
 帰還プログラムの有効期限は一年。期限切れになってさらに七年が経ち、城から届いたドラゴン便で、カナンは出立時の姉の年齢になったことに気がついた。
 木の皮をなめした巻き物は、身分昇格審査の願書。成人した下層身分のものに与えられる、貧しい生活から脱却する機会だ。
 希望行き先世界に、カナンは迷わず、姉が日記に残した空間座標を記入して提出した。

 生い茂る竹に視界を遮られる。主要道路からそう離れていないはずなのに、エンジン音は聞こえない。ただ、延々と緑の茎が並ぶ。道は緩やかに上っていた。
 カナンは手元のタブレットで異世界空間座標を確かめた。姉フラウが残した数値はこの辺りのはずだ。審査対象になる「転生先で手に入れた美しいもの」として、彼女はどうあっても姉が求めていた光の花を持ち帰りたかった。
「こんなところにあるとは思えないけど」
 蒸し暑さに嫌気がさす。異世界転生して、こちらの世界時間で一ヶ月が経とうとしている。期限の三分の一が、なんの手がかりもなく過ぎていた。あせりが募るばかりだ。
 行く手の地面がすっぱり切れて、竹の上部だけが見える。あと少しだけのつもりで崖に近づいた足が、思いのほか体から遠い地面を踏み込んだ。
「しまった」
 いまだに気を抜くと、転生した体での距離感を忘れる。
 厚く積もった枯葉の下に地面はなかった。女子大生姿のカナンは、悲鳴をあげる余裕もなく落下した。
 怒鳴り声に目を開けると、禿げ上がった頭を汗で光らせた老人の顔があった。
「あんた、ひとんちの竹林でなにをしてる! 勝手に入りおって。どこの誰だ、警察に通報するぞ!」
 老人の手には、カナンが取り落としたタブレットが握られていた。この世界で普及している携帯通信機器に似せたものだが、内容は異なる。異世界で生活するために必要な記憶操作アプリや帰還プログラムが入っている、命の次に大切なものだ。
「か、返してください!」
「何を言うか、最近の若いものは!」
 もみあっていると、遠慮がちな声がかかった。
「どうされました?」
 竹の間からこちらを凝視している男性がいた。薄手の長袖長ズボンに首からタオルをかけ、軍手をはめた推定三十代前半。腰にさげている円盤状のものは蚊取り線香らしい。煙が鼻を刺激した。
「おお、タケ坊か。なんか知らん、この女が勝手におるから」
 警察に突き出すのだと鼻の穴を膨らませる老人に、タケ坊と呼ばれた男はあわてて手を振った。
「すみません、事前に言ってなくて。俺のツレです。姿が見えなくなって探してたところなんです」
 カナンはおもわず、老人に奪われたタブレットをみた。もしや、ロックが外されて記憶操作アプリが発動しているのかと疑った。だが、その形跡はない。
「そうか。しっかり見張っとりん」
 ぶつくさ言いながらも老人はタブレットを放るように返すと、荒い足取りで去っていった。後ろ姿が完全に竹の間に消えてから、カナンは男に頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます」
「気をつけりん。最近竹林に不法投棄したり筍を盗んだり、不審者が多いに」
「私が不審者だって、疑わないんですか?」
 首を傾げるカナンに、男は破顔した。
「どう見ても、そういう格好じゃないに。怪我はない?」
 カナンは自分の姿を見下ろした。シフォンのフリルたっぷりの半袖カットソーに短パン、スニーカーという姿だ。ただし、左半分が泥だらけだった。持ち物はタブレットと財布だけ。その財布も、枯葉が混じったぬかるみの中から男性が拾ってくれた。
 二つ折りの財布が広がり、学生証が見えていた。目に入った個人情報に気まずい顔をしている男性へ、カナンは頭を下げた。
「外山架奈です。市内に下宿しています」
 名前を間違っていないか、いまだに不安になる。
「で、本当は架奈ちゃん、何しに来たの?」
 高橋健留(たける)と名乗った男性は、迷いのない足取りで竹林を進んだ。
 身分昇格審査のため、とは言えるはずもない。異世界人に正体が露見すれば、その場で失格、強制送還となる。
「高橋さんは?」
 卑怯だと自覚した上で問い返すと、健留は折りたたみ式の(のこぎり)を見せた。
「竹を切りに来た。もちろん、さっきのおじさんには許可もらってるに。手筒を作るんだ」
「手筒?」
「花火だに」
「あの、ひゅるーん、どーんって打ちあがる?」
「スターマインじゃなくて、手で持って揚げる」
 子供が夏の夜にろうそくを囲んで火花を散らす光景が浮かんだ。だがそれも、周囲の竹と結びつかない。架奈の太ももといい勝負の竹が、風にゆられて互いにこすれ、きしんでいる。
 脳内を疑問符だらけにしていると、健留はスマホで画像をみせてくれた。
 火の粉が一面に舞っている。シルエットとなった人物が両足をふんばり、腰を落として筒状の物を体に沿わせるように抱えている。別の画像では、黒い夜を背景に、人の背丈の十倍近く噴きあがる火柱もあった。
 姉の言葉が耳の奥に聞こえた。
『緩んだ境界の向こうに見えたの。真っ暗な中、大地から光の花が噴き出るの』
「この花火、売ってください!」
 スマホを握りしめ、架奈は健留に迫った。間違いなく、姉が求め、架奈となったカナンが探しているものだ。ところが、健留は眉尻を下げて曖昧に返した。
「売るのは、難しいなぁ」
「なんで。お金なら用意します」
 食い下がると、健留はスマホを取り返し、首をかしげて考え込んだ。
「値段のつけ方が分からない。材料費だけなら五千円くらいだけどね。手間とか、どうやって計算したらいいか」
 宙空を見上げて考えた健留が立ち止まった。
「そうだ、なんなら一緒に作る?」
「つく……?」
「手筒は、揚げる人が作るのが基本だに。竹を切って乾燥させて、節削って火薬詰めて」
「やります!」
 彼は向きを変えた。数分歩き続けると、風にゆられる幾本もの竹の中に一本だけ、白いビニール紐が巻かれている。健留は根元で鋸を開いた。
「手伝ってもらえて助かるよ。ほんとはゴールデンウィークには切らないといけなかったんだけど、一ヶ月も遅れて。じゃあ、この竹を持っていてくれる?」
 はりきって架奈は手を伸ばした。
 目標物をつかむ。再び、カナンとして生まれて二十年使っていた、現実世界における体型での感覚に支配されていた。
 肘の辺りで竹をはさんだ架奈を見て、健留は盛大に笑った。
「架奈ちゃん、ドいいわ、その反応」
 架奈は首まで完熟トマト色になりながら、両手で竹を持ち直した。
 鋸の刃が、小刻みに竹の肌をこする。繊維が詰まった円柱は滑りやすい。だが健留は手馴れた様子で切り込みを入れ、そこから鋸をひいた。振動が伝わる。腕が痺れてきた。青臭さと共に削りかすが飛ぶ。
 刃で竹をこする音が次第に高くなる。風が吹くたび、竹が重くなる。やがてティン、と鳴るころには、健留の大きな手も竹をつかんで支えていた。
「ゆっくりね。ちょっとでも何かに当たるとヒビが入るから。目に見えないくらいのヒビでも暴発の原因になるもんでね」
 慎重に竹を傾けていき、分厚く積もった枯葉の上に寝かせた。今度は、背の丈ほどの長さに切っていく。
「でもなんで、この竹に目印をつけてたんですか? 他のと違うんですか?」
 ナタで落とされた葉を集めながらたずねると、健留は目を細めた。
「見てごらん、まっすぐだろ?」
 赤子を抱くように持ち上げられた竹は、断面が完全な円形だった。なおかつ、断面から断面まで、わずかな反りもない。
「太さも十分。ただ、年々いい竹が減って、竹探しも大変になってるんだよね」
 切り出した竹を抱えて竹林から出ると、現実世界よりも日差しが強い。健留が示した軽自動車のトランクに古い毛布を広げ、竹を寝かせた。
「下宿は近いの?」
 大雑把な住所を告げると、健留は腕を組んだ。
「こっからだと、山を迂回しんといかんね。送っていくよ。うちの店の近くだし」
 店の名前は、聞くまでもなかった。車体に書いてある。『夏目筆店』路面電車の電停前と記されていた。
「花火屋じゃないんですね」
「うん。幼馴染みの親父さんが作った筆を売ってるところ」
 車中で話してくれたところ、高校を卒業して働き始め、来年には店を継ぐことが決まっているらしい。
「それって、婿養子とか?」
 架奈がからかうと、健留は嬉しそうに肯定した。商売繁盛と家内安全、婚約者の健康への感謝と祈願をこめて、地域の祭りで手筒を放揚するという。
「架奈ちゃんは、手筒揚げたいのはなんで?」
 上の身分になって生活を楽にしたいから、とうっかり本当のことを答えそうになった。
 健留と話していると気が緩む。もともとカナンは人見知りが激しい。初対面のものと親しく話せるのは珍しかった。
「画像見て、すごいなって思って」
「去年も揚げたけど、いいよぉ。手筒が一番綺麗に見られるのって、実は揚げてる人だったりするもんね。あ、ここでいい?」
 軽自動車は大型小売店の駐車場に入った。開店後間がないとあって、アスファルトを敷き詰めた平面駐車場は空きが目立った。所在なさそうに警備員がうろついている。
 礼を言ってシートベルトをはずすと、健留が後部座席を探った。
「再来週の土曜には乾燥終わらせるから、節をぬく作業をしよう。それに、本当に揚げるなら講習を受けなくちゃ」
「そんなのがあるんですか」
「一応は火薬を扱うからね。青年会のほうで講習の日にち調べておくから、週半ばにでも店に連絡して」
 渡された冊子は『夏目筆店』の商品目録で、最後のページに住所と連絡先が書かれていた。

 一か月前にカナンは、この地球第二世界へ入った。現実世界を出るのは初めてだった。緊張しながら案内役の死神につれられ、向かった先が架奈の下宿だった。
 架奈は突然死しかけていた。両親が失業し、仕送りが途絶えた。学費や生活費を払うためにバイトに励んだ挙句、たまった疲労が爆発したとみられる。
 彼女の魂が抜けると同時に、架奈の姿になったカナンとすりかわった。個人情報や言語、文化知識のインストールが終了すると、架奈を知るものたちの記憶を操作した。つまり、架奈が亡くなったのは五月ではなく、カナンが帰還するときだと認識させる。
『帰還期限を過ぎると』立ち去り際に死神が忠告した。『お前の意識は徐々に架奈という女のものへと変化していく。気をつけるんだな』
 カナンは、彼女と同じように学校へ行き、賄いつきのバイトに励んでいる。時折、性格が変わったのではないかと問われて冷や汗をかきながら。その合間に、健留と連絡をとって手筒作りに携わった。
 架奈の友達付き合いは少なく、休日に遊びのお誘いがはいることはない。どこまでも現実世界のカナンに似ていて悲しいことだが、動きやすかった。
 切り出した竹は燻して水分を抜いた後、ゆがみの無いのを選んで節をぬく。生えていた時根元に最も近かった節だけ残し、残りの節に切り出しナイフで穴を開け、そこからやすりで慎重に削っていく。
 内部が完璧な円筒になるよう削っていくのは根気が要った。完成が近づくと、数回やすりを動かしては指の腹で削った面をなで、なめらかになっているか確認する。もし指先にささくれが引っかかったり、わずかでも凹凸が認められると、やすりをかける。その繰り返しだった。
 作業はたいてい、早朝におこなった。まだ子供たちが遊びに来ない公園でレジャーシートを敷き、雨の日はひさしの付いた東屋を利用した。慣れない手で節を削り終わる頃には、花壇のヒマワリは架奈の身長を越える高さに育っていた。
 削り具合が悪くても暴発の原因になる。健留が密かに架奈の竹を手直ししていた。気がついていたが、何も言えない。
 綺麗にした竹の外にセメント袋などの紙を巻き、さらに隙間なく縄を巻きつける。縄がゆるまないよう、巻き終わりまで手の力を抜けない。
 そうして筒が出来上がると、いよいよ火薬を詰める。
「自分でやるんですか」
 驚く架奈に、健留は当然だとうなずいた。
「こっからは俺がやるよ。専門家の指導のもと、だけどね。山の火薬工場を借りて、少しずつ突き固めるんだ。これも、気を使う作業だに」
 コンビニで買ってきたペットボトルの麦茶を飲みながら、架奈は汗を拭った。
「休みのほとんどが、手筒作りで終わっちゃいますね」
「ま、趣味だからね。時間も手間も惜しくないに」
 健留はケロリと言う。汗と竹の粉にまみれていても、目が活き活きとしていた。手筒に魅了されていることが素直に伝わる。
 健留のポケットで、スマホが震えた。断りを入れて立ち上がる後ろ姿から、架奈は目をそらせた。
「うん、そろそろ戻る。穂乃花はどうする? ……ん、分かった」
 架奈は残っていた麦茶を一気飲みした。手筒を作り始めて一ヶ月。胸に芽生え始めた感情を冷やすには、麦茶はぬるくなりすぎていた。

 健留と手筒を揚げるための講習を受けたのは、次の週末だった。
 大型小売店のフードコートで、架奈はぐったりとテーブルに顎を載せた。腕がぱんぱんだ。
「がんばったね。ほら、これは俺のおごり」
 差し出されたかき氷から冷気がただよう。架奈はあわてて体を起こした。
「いいですよ、私もバイトしてるんだし。健留さんだって」
 途中で、呼び方が変わってしまったことに動揺した。講習会に集まった人が口々に彼を「タケル」「タケ坊」と呼んでいたのにつられてしまった。だが、呼ばれた本人は気にしなくていいと笑う。
「たけ、じゃなかった、高橋さんにはおごっていただいてばかりで」
「いいって。家賃とか大変でしょ。がんばってる妹におごるようなもんだに」
「いつのまに健留さんの妹なんですか」
「まあまあ。かき氷くらい、気にしんで」
 ずるい、と架奈は心の中で非難した。悪気が蚊ほども含まれない顔で言われると、カナンの気持ちが揺らいだ。現実世界に戻れば、架奈は亡くなったことになる。健留の中の架奈についての記憶は消去される。だが、カナンの記憶は消えない。
 結局かき氷をごちそうになる羽目になった。
「健留さんが手筒を揚げる祭りって、いつなんですか?」
「お盆前だに。架奈ちゃんが手伝ってくれたから、作るの間に合ったよ。架奈ちゃんは、どこで揚げる? 祭りの実行委員に話は通せた?」
「実家の祭りで。えと、消防の人に相談しているところです」
 現実世界の役人にはまだ話していない。帰還後すぐに、城の警備役の小鬼に書類を提出して火器使用の手続きをしなければならない。下層階級ながら一目おかれていたフラウならともかく、みそっかすのカナンの申請が通るか怪しいところだ。
 嘘がばれないかと冷たい汗で背中をぬらす。目の前の健留を伺い見て、いつになく真剣な眼差しが注がれていることに気がついた。顔が火照った。
 健留は、自分用に買ったアイスコーヒーを一口すすった。
「ただ、架奈ちゃんに手筒を渡すのは、ちょっと心配じゃんね」
「え、どうして」
 予想外の言葉に、すくった赤い氷の小山がカップに戻っていった。
「今年は、だよ。来年までに腕の力つければ。ほら、今日だって手筒持ち上げるのがギリだったでしょ」
「だけど、いちおう噴射時間の三十秒以上は持っておくことはできたのに」
 架奈の落胆振りに困惑した様子だが、健留は静かに説得してきた。
「火をつけて噴射してるときってね、圧力が筒の内側から外に向けてかかるじゃんね。そのとき、反対の方向、つまりは下向きに、同じだけの力がかかる。そうしたら、火をつけていない手筒の二から三倍の力、つまりは二、三十キロの重さをもちあげられる力がないと支えられない」
 火を噴いている手筒花火を取り落としたら。大惨事だ。
 どうにか鍛えるからと食い下がろうとしたとき、子供の声が耳に入った。
「あ、しろくまさんのぬいぐるみ! ママ、あれ買って、買って!」
 フードコートの隣にあるおもちゃ屋からだ。陳列棚を指差し、麦わら帽子を被った小さな女の子が母親にねだっている。指差した先には、大人が抱きかかえるほどの丸っこい物体があった。手足が短く、もふもふしている。
 とっさに、現実世界でのフラウがそこにいるのかと錯覚して、愕然となった。
「わ、分かりました。たしかに私に手筒は無理かもです」
 現実世界に転送した手筒を、あの体型でどう揚げられるというのだろう。短い手足、低い身長。長さ一メートル弱、太さ直径三十センチ、噴射時体感重量30キログラムのものを三十秒以上抱える。重力の計算をしても、不可能だった。
 あまりの失望の様に、健留まで蒼白になった。
「そこまで落ち込まないで。女性でも揚げてる人はいるから。来年なら大丈夫」
 来年では、だめなのだ。半分以上残ったかき氷は、すっかり薄い砂糖水に浸かっている。先がスプーンになったストローで意味も無くつつきまわしていると、健留が手を打った。
「ようかんなら、大丈夫だに」
 甘い餡を寒天で固めた菓子、と脳内変換した架奈に、彼は両手の親指と人差し指を丸め、さらに間を肩幅ほどに開いて見せた。
「これくらいの、どちっちゃい手筒があるに。普通は地域の祭りで小学生に体験してもらうやつなんだけど、ちゃんと最後のハネもあるだよ」
「ハネまで?」
 手筒の醍醐味は、天高く噴出する火柱だけではない。降り注ぐ火の粉に見とれている隙をついて、筒の下方が爆ぜる。足元から火の粉が巻き上がり、放揚者は一瞬炎に包まれたように見える。これがハネだ。筒の終わりに仕込まれるハネ粉と呼ばれる特別な火薬の仕業だ。
「迫力は本来の手筒に負けるけど、あれはあれで綺麗だに。実行委員の人に言って、分けてもらえるか聞いてみるよ」
 ね、と顔をのぞきこまれ、架奈は赤い顔でお願いしますと答えるしかできなかった。
 駐車場に出ると、梅雨明けの日差しの名残が薄暗がりによどんでいた。熱気がまとわりつく。
「祭りの前日には、ようかん渡せるようにがんばる。不安だったらまた連絡して」
 車体の横に張られた『夏目筆店』の電話番号を指差された。頷きながらも、離れた場所からこちらを見ている女性に気がついていた。
 婚約者だ、と思った瞬間、健留も彼女を認めて大きく手を振る。はしゃいだように駆けて行き、彼女が肩にかけていたエコバッグを受け取るのが見えた。
 邪魔者は退散すべしときびすを返す前に、健留に呼び止められた。
「穂乃花を送っていくから。歩いて帰れる?」
「大丈夫です」
「変な人多いから、気をつけりんよ」
 架奈に向かって会釈する女性の視線が肌を刺す。憎悪ほどではないにしても、不安と疑惑が痛かった。そのつもりはないと念じながら、世話になっている異世界の人を傷つけていることがいたたまれなかった。
「じゃあ」
 軽自動車に乗り込む女性の肩口で、籐編みの鞄につけたストラップが揺れた。架奈は息をのんだ。ドアが閉まった。架奈は車が見えなくなるまで蝉時雨を聞き流していた。
 架奈の網膜に、ストラップの花が焼きついていた。
 カエシバナ。現実世界に咲く大輪の花だ。異世界のヒマワリに似ている。咲いたとき花弁の内側は白く、外側は黄色い。だが夕方になると内が黄色、外が白に変化し、まるで裏返ったようにみえることから名がついた。花を象った木彫りは旅のお守りになっている。カナンが旅立つ姉に贈ったものに違いない。
 空に赤く旱星が輝く。晴れ渡る夜空に反して、架奈の心にはゲリラ豪雨が吹き荒れていた。

 祭りの前日。架奈はバイト代で買った菓子折りを手に、約束の場所へ向かった。『夏目筆店』の文字はまだ見えない。平面駐車場に生えている木の陰で待つつもりで歩いていった。
 幹の陰から、淡い色のワンピースがひらめく。健留の婚約者が立っていた。もしかしたらフラウかもしれない。そう考えると、架奈の体はこわばった。
「突然ごめんなさい。健留、祭りの準備で急に来れなくなって」
 預かってきた、という紙袋には、縦笛サイズの手筒が入っていた。これなら、ふわもふぬいぐるみのような現実世界のカナンでも揚げられそうだ。
 礼を言って、架奈は菓子折りを差し出す。穂乃花と名乗った女性は受け取りながら、首をかしげた。
「架奈ちゃんって、健留とは、その、どういう……?」
 やはり、その話題になるかと、架奈の鼓動が速くなった。
「故郷で手筒を揚げたくて、高橋さんが竹を取るところに居合わせたので、それだけです。明日でもう、居なくなりますから私」
 早口になった。地面ばかり見る架奈の頭の上から、息をのむ音がした。
「架奈ちゃん、行っちゃうの? 健留、そのことを心配してたから。今日渡さないと、架奈ちゃんがどこかに行ってしまうかもしれないって」
 はじかれたように顔を上げた架奈に、穂乃花が微笑んだ。ぬけるように色が白い。日焼け止めの匂いがしていたが、それだけではない。命の細さを感じさせる白さだった。
「あの、聞いていいですか?」
 挙げた指先が震えた。アスファルトからの熱気も、体を包む冷たい緊張に阻まれて肌に届かない。架奈は唾を乾いた喉に流し込み、声を絞り出した。
「その木彫りの花なんですけど」
「これ?」
 不思議そうに差し出された飾りは、やはりカナンが彫ったものだ。裏面に、当時のサインが見て取れた。
 クマゼミの声がシャワーのように降り注ぐ。
 祭りは見に来てねと手を振る穂乃花と別れた後、どうやって下宿にたどり着いたか、架奈は覚えていなかった。

 和太鼓の音が腹に響く。色とりどりのちょうちんが投光機と競って夜の帳を押しやっていた。屋台の前でしゃがみこむ子供たちの背中で、リボン結びの兵児帯が揺れる。
 会場となった校庭の半分を黄黒のロープで仕切り、花火放揚の準備が整っていた。
 暗がりに消防車が待機している。かたわらに、防火法被を着た男女の緊張した興奮が静かに溜まっていた。校庭を囲む土手に立ち、架奈は昨日穂乃花から聞いた話を思い返していた。
『うちでの仕事振りもまじめだし愛想もよくて、父はすっかり健留が気に入ったの。体の弱い私では、店を継ぐのは難しいし。養子に来ないかって話がでても、だれも不思議がらなかった。だけど二年前、健留は事故に遭って』
 太鼓がより一層激しく打ち鳴らされた。余韻がもたらした静寂のあと、アナウンスが花火放揚の開始を告げる。
『意識を取り戻したら急に、手筒揚げたいなんていうの。かなりの剣幕で。驚いて、父が商工会の知り合いに都合してもらって、校区の祭りで放揚したわ』
 地面を埋め尽くす観客と放揚場所の境界線上に、畳一枚ほどの板が数枚立てられていた。防火板だ。
『手筒を揚げる姿を見ていたら、急に彼がどこかに行ってしまいそうな気がして。ハネるとき、思わず叫んだの。行かないで、って』
 放揚者により手筒が運び込まれた。噴射口をまっすぐ防火板に向け、地面に寝かされる。火付け役が松明を掲げた。その手が半円を描くように噴射口へ近づく。
『その後、健留は何か悩んでいるようだった。しばらくして元気を取り戻したとき、私にこれをくれたの。大切なものなんだって』
 最初の放揚者が、健留だった。手筒の先がくすぶる。すぐさま幾本もの光が筋となって噴き出す。光線は地表をとび、激しく防火板を打った。板にはじかれた火の粉が板周辺の地面に落ちる。観客がどよめく。
 火付け役の合図で健留が進み出た。観客に、いや、神に向かってお辞儀をする。手筒に歩み寄ると、両手で筒を持ち、ゆっくり引き起こした。噴射音が轟く。筒が角度をあげるに従い、火柱も波打ちながら空へ移動する。右手を体の方へ巻き込むよう手筒を抱えると、噴射口は斜め上向きに固定された。
 四階建ての校舎より高く火柱が立ち上る。真っ直ぐ伸ばされた背筋。右足を一歩踏み出して、全身に火の粉を浴びている。輝く紅葉のごとき光と熱の中で、健留は微笑んでいるのだろう。架奈にはそのように思えた。
 架奈の手元でタブレットが光った。帰還期限が来たことを知らすアラームが点滅する。
「フラウ」
 口からこぼれた声は、轟音にかき消された。この世界時間で二年前といえば、現実世界の八年前。まさに、フラウが旅立った年だ。
 現実世界に戻るべきは、周囲から期待された姉ではないだろうか。もしかしたら彼の中にまだフラウの意識が残っていて、帰還できるかもしれない。だが、すでに健留であった場合、審査に失格したカナンと家族は一生泥をなめて暮らさねばならない。
 次の手筒にも火がつけられ、火柱は数をました。炎の色が目にしみる。視野がにじんだ。
 アラームが鳴る。架奈は親指をタブレットの表面に滑らせた。
 記憶操作アプリが起動する。続いて、帰還プログラム実行。
「この世界で、幸せになって!」
 最初の手筒がハネた。架奈が消えた会場に、ひときわ大きな爆音が響く。放揚者の度胸をたたえる拍手が、夜空に吸い込まれていった。
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