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逃げ水の中に

作:天菜 真祭 HP:Sequence お話のカケラ+
分量:22枚  使用お題:ライフセーバーの肉体、溺死者、暑さを凌ぐ、麦茶、お盆、親戚の家、逃げ水を追い駆ける



 砂時計みたいな姿をした、少しずつ魔法の砂を燃やす仕組みのカンテラを両手持ちに吊して、今夜、最後のお客様を桟橋で待っていた。
 オアシス湖を渡る夜風は思いの外に冷たくって、もう息が白い。上限の月が西の空に低く蒼く、砂漠の地平線に、半分の月が還ろうとしていた。

 今夜は、もう、誰も来ないかな…… そう、思って、お店の看板を片付けてようとした。

 どぼん……

 オアシス湖に誰か落ちた。湖に落ちたってことは、きっと、初めていらっしゃるお客様だと思った。船を出して迎えにあがると、スーツ姿のサラリーマン風の男性だった。
「いらっしゃいませ」
「……! ……?」
 ファンタジー小説に出てきそうな木製のゴンドラを、どこかエスニックぽい衣装にエプロンの私が、にっこり笑顔で漕いでいるんだから……たぶん、普通、驚くはず。
 それも、初心者さんだと——気がついたら突然に砂漠の真ん中に在るオアシスに——って、感覚のはず。しかも、ずぶ濡れ。言葉がすぐに出なくっても無理はないよね。

 ——それに、この場所に来ちゃったってことは、きっと、そういう事情があることだから。

 コーヒーカップに近い形状の器を選んで、サイフォンで淹れたコーヒーに似た温かい飲料を注いだ。
「美味いね、これは……っ!」
 スーツを脱いで、タオルで濡れたワイシャツを拭いていた男性は、コーヒーだと思ってひとくち含んだとたん、驚いたように声をあげた。
「《カウンタ・クロックワイズ》って名前の異世界の時計草の実を炒った飲み物です」
 時計草って種では……? という点は、疑問にはならなかった。じっくり炒ったそれは、水色をしていることを除いて、コーヒー豆に似ていた。それにね、この実は煮出しても色が付かないから、お客様にお出ししたカップには、微量のカラメルと色付け魔法の粉を混ぜているけど。
 数粒だけ、炒る前の実をお皿に乗せて、お見せした。
「へえ、きれいな赤い実だね」
 私には淡い水色に見える実を、この男性は深紅と答えた。だから、お代わりを大きめのマグカップにたっぷり注ぎ入れた。
「いや、その……こんな深夜だから、これ以上のカフェインはご遠慮したいのだが……」
 当惑気味の男性に、私は言葉を選んだ。
「この《カウンタ・クロックワイズ》の実にはカフェインは含まれていません。代わりに、ほんの少しだけ、時間を戻せる成分が含まれています」
 一粒で約三分くらい戻せる。炒る前の実が赤く見えるのなら、きっと、二時間程度、この人は時間を必要としているはず。
 だから、もう一度、深呼吸してから、尋ねた。
「二時間くらい前に、何か、大変な出来事がありましたよね?」
 核心を突く質問は時に人を傷つけてしまう。だから、慎重に……ね。
 男性は、深い深いため息の後、事情を話してくれた。この方、とある中堅企業の本社でシステム管理をしていたSEさんなのだそう。……えっと、正確には派遣さんらしい。
「……私は、疲れ切っていたんです」
 と話すには……バックアップ用のプログラムを間違えて、システムを飛ばしちゃったらしい。無意識のうちに、タイムスタンプが古いファイルをリストアしてた……とか。
 たっぷりマグカップを飲み干した男性は、まだ、この時計草の実がピンク色に見えると答えた。
「いつも、こんな深夜まで、お仕事をなさって……」
 追加の実を挽き、もう一度、サイフォンに火を点した。
「……夜間バッチが終わらないんです」
 システム構成に無理があるとか、エラーが頻発するとか……「社内には派遣SEの言葉を聞いてくれる人なんていない」と嘆く男性が不憫に思えた。だから、専門用語は、私にはちょっと無理っぽいけど、良い聞き役になろうと頑張った。
「小手先の最適化では焼け石に水で…… 《昨夜》が終わらず、本当に、朝が来てしまったんです」
 つまり、その日入った注文データを深夜に集中処理するプログラム処理が全部終わらないまま、翌朝が来てしまった。生地の仕込みができないまま、開店時間を迎えたパン屋さんと同じ状態ね。お店を開けることができない。
「それで——障害対応で連続徹夜作業の果てに、やってしまった」
 ため息ばかりの男性の前に、ブラックコーヒーそっくりのマグカップを差し出して、微笑して見せた。
「さあ、お代わり、どうぞ。濃いめだから、これで、必要な時間を戻せるはずですよ」
 すっかり透明水色になった時計草の実を不思議そうにしげしげと眺めて、男性はつぶやいた。
「本当に、これで、私は《帰る》ことができるのですか……」
 数時間前に引き起こした失敗。
 そして、この男性は絶望と孤独のあまり衝動的に取り返しの付かない行いをした。社屋の屋上、フェンスを乗り越えて空へ……本来ならば、この人は天国に行ってしまったはず。
 だけど……落ちた場所は、このオアシス湖だった。
「運が良かったんですよ、きっと」
 私は曖昧に笑って見せた。男性はまだ、空っぽになったマグカップを見つめていた。時間を切望していた人にとって、この時計草の実から煮出したコーヒーもどきは、この上もなく贅沢な味わいに感じるらしいの。
「お世辞抜きに、このコーヒーは美味い。また、来ることはできるだろうか?」
 憑き物が落ちたみたいに穏やかな表情が、嬉しくて、少しだけ寂しかった。こんな顔をできる人は、もう、ここへは来ない。この方は、ほんの少しだけ、意地悪な時間に躓いただけの一見さんだと解った。
「この世界の物をたっぷり飲んでしまいましたら、もう、あんなコトをなさらなくっても、これを飲みたいと、本当に心から願えば……」
 私は、営業スマイルでにっこり笑った。この男性ともう少しお話したかったけど、たぶん、もう会えない。でも、その方が、きっと、幸せだから。



 満月がぽっかり天窓の真上に浮いていた。
 遠い異世界で採れた竜の鱗から削り出したとかいうグラスを磨きながら、今夜も眠れないから、お客様が来るのを待っていた。

 ぽちゃん……

 オアシス湖の方で小さめの水音が弾けた。
 ゴンドラを漕いで迎えに行くと、アラビアンナイトみたいな衣装の少年が、差し出した櫂を伝いあがって来た。浅黒い肌色、額や頬に不可思議な魔法の文様を塗っていた。
 その小さな男の子は、私をかなり警戒した様子で見上げていた。

 ——言葉、通じるかなあ?

 身のこなしの軽さと、衣装、何よりも目線の厳しさから、どこか、異世界の少年兵と判断した。
 ま、いいっか。このオアシス湖の世界は、変に捻れていて、どういう訳が異世界の人たちとも言葉が通じるの。夢の中にいるのと同じと言えば、解ってもらえるかなぁ。私、英文法とか苦手だけど、このオアシス湖のお店にいる時だけは、二十カ国語くらい平気でいける。

 少年が、何かつぶやいた。とたんに、彼の話言葉が、何か、解っちゃった。リシルペル世界の北イルムテム地方の言葉だった。音素数が多くって、母音もたくさんあるから、舌っ足らずな私にはキツいかも。魔法のように言葉が解っても、いざ、しゃべるとなると舌がもつれるの。きっと、テレビのお笑い番組に出て来そうな可笑しな外国人みたいになっていたはず。
「風邪引いちゃうよ、さあ、こっちにおいで。何か、暖かい物を出してあげる……」

 ぱんっ!

 先に立ってお店に向けて桟橋を歩き始めたとたんだった。
 乾いた破裂音が背中で、ひとつした。あれ? と思った。何が起きたのかは、すぐに解った。その理由もすぐに気づいた。
 だから、振り向いたときは、できるだけ優しく笑った。
「心配しないで。ここは、絶対に大丈夫だから……ね」
 ここは、逃げ水の中に在るオアシスの湖畔にできた小さな喫茶店だった。絶対に、誰も逃げ水には追い付けない。だから、嫌な人は誰もここへ来ることはできない。
 だから、少年をきゅっと抱っこして、もう一度、大丈夫だよっと耳たぶにささやいた。
 豆鉄砲に撃たれた鳩にみたいになった少年の手を取って、私を撃った真銀製の銃弾を返した。小さな銀色の表面にびっしり退魔呪文を刻印してあった。私は、魔物じゃないもの。こんなの平気。それに、これは精巧な工芸品で高価な物だしね。

 結局、少年は、私のお店でホットケーキをたっぷり食べてくれた。有刺鉄線みたいな表情が、コーヒーフロートに乗ったアイスクリームのように溶けた。
 あっ、コーヒーフロートは比喩表現で、少年にお出しした飲み物はコーヒーじゃなくって、ラムネだけど。
 ……ひとつだけ、心から忘れたいと願う嫌な記憶を、ひとつだけだけど消してしまう魔法の泡を混ぜたラムネを、少年は幸せそうに飲み干した。



 三日月が夕方の空に輝いていた。やっぱり、砂漠のオアシスには三日月が一番似合うと思う。桟橋を歩いてお店に向かった。逃げ水の中のオアシスと現実を往復するのも慣れて、近頃はちゃんと桟橋の上に降りられるようになった。
 だけど、不意に気づいた。店先に出された黒板風の看板が書き換えられていた。

 ——あっ?

「店長っ! いらっしゃっていたんですか!」
 急いでガラス飾りの扉を抜けて店内に駆け込んだ。逆三角形体型の大柄な背中が見えた。
「会えて良かった……ギリギリってタイミングだ」
 店長の姿は、もう、薄く透け始めて、元の世界へ還ろうとしていた。
「《カウンタ・クロックワイズ》の実が減っていたから、一袋、追加しておいた。それと薄荷草は時間凍結魔法陣の中にしまうこと。零れてたぞ」
 ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。この大きな手が、私にとって一番に安心できる《場所》だった。だけど、ふいに、消えた。
 見上げると、大柄な店長の姿はもう空気に溶けて、消えていた。

 ……おつかれさまでした。

 ご自分の在るべき世界に帰って行った店長へ、聞こえないけど、ひとことつぶやいた。
 このオアシスカフェにあるお品書きは、全部、どこか遠い異世界から、店長さんが持ち込んだものなの。
 平和な世界にいる私には、まるでライフセーバーの肉体みたいに見えたけど…… どこか、すごく遠い異世界で戦争をしていた人らしい。だけど……
「馬鹿将軍閣下殿のご命令とやらでドンパチやるのに、うんざりしちまったんだ」
 とか、
「俺の天空船は、アイスクリーム冷蔵運搬船なんだ。空飛ぶ甘味処が本望。チョコレートパフェに埋もれるのが本懐。そいつが何で、呪符爆雷なんて汚いモノを積まなきゃならない」
 とか。見た目は鬼軍曹なのに、実は戦争が大嫌いで口を開くと文句だらけだった。
 戦争が始まって、天空船ごと徴用された。始めは艦隊の食料を運ぶ役目を渋々、引き受けていたらしいんだけど……
 偉い人の命令で食材を廃棄しろ。爆弾を積めといわれて……店長ってば、ぷっつんしてしまった。それで、ここへ来てしまったらしい。
 自爆するために用意した熱魔法爆雷の中身は、このお店の暖房や燃料に、満載していた食材はもちろん、このお店の倉庫にしまわれた。

 尊敬している方だけど、めったに会えない。魔法が使える方だけど、その魔法力をもっても、逃げ水の中に在るこのお店に来るのは、大変らしいの。
 だって、ほんの半年前に戦争が終わった。
 平和な世界に戻って、今頃は幸せを運んで天空の海を航海しているはず。だんだん、本来のアイスクリーム冷蔵運搬船のお仕事が上手くいくようになってきた……って、先週、会ったとき、話していた。
 居場所ができた人は、この逃げ水の中に在るオアシスには来ることができない。
 でも、それは、本当に良いことなんだよ。



 ここは……逃げ水の中にある時間が止まった世界。私たちの昔話でいうと、竜宮城が近いかな。色々な世界、あちこちの国や地域に、同様の隠れ里の存在を示唆するお伽噺や民話があるらしい。

 こういう世界のお約束は、ひとつ。
 この世界にある水や液体を飲んではいけない…… もしも、飲んでしまったら、元の場所へ帰れなくなる。

 ……私、たっぷり飲んじゃいました。

 最初にここへ来たとき、オアシス湖で溺れた。真面目に溺死者になる寸前まで、たっぷり。
 不格好にオアシス湖で溺れていたら、セーラー服の後ろ襟を掴まれて、魚介類みたいにゴンドラへ引き揚げられた。
 その後は……私がいつもしているのと同じにお店に案内された。出してもらった飲み物は、キンキンに冷えた麦茶だった。やっぱり日本人なら暑さを凌ぐには麦茶だと思う。
 この世界は本当に不思議な場所なの。ひとことしゃべっただけで、相手に好きな食べ物や飲み物、お気に入りの衣装や、夜抱いて眠るぬいぐるみのことまで解ってしまう。

 ——ここ、どこ? 学校のどこか……じゃないですよね?

 こんな感じで始まった何でもない会話が、いつしか大切な時間に変わった。答えが欲しいわけじゃなくって、ただお話しできる相手を求めていた。店長は、本当に聞き上手でおしゃべりが楽しい方だった。
「お盆に……親戚の家に遊びに来たとでも思って、ゆっくりしていけば良い」
 私が使う日本語の語彙に無理して合わせて、ちょっと変な外国人みたいに、ヒグマみたいに偉丈夫な店長が笑ってくれた。そんな優しい言葉が嬉しかった。だから、気が済むまでこのお店に留まって、お店を手伝った。

 そして、気がついたら——長い長いお店番をするようになったの。



 砂漠にのぼる月の満ち欠けが一巡したら、帰宅の時間になった。
「頑張れよ。頑張りすぎるなよ」
 店長の不思議な言葉に見送られて、私は空気に溶けた。

 そして……

 下校時間を過ぎた図書室は真っ暗だった。現実の世界は真っ暗だった。
 床に仰向けに倒れていた。整理の途中だった本が床に散らばって……起き上がろうとしたら、左足に痛みが走った。すぐそばに倒れた脚立が転がっていた。ぶっつけたんだって気づいた。
 痛いのを我慢すれば歩けるはずだった。そんな怪我したわけじゃなかった。でも、心が折れてしまった。

 現実の世界に戻ったら、心の中に言葉が咲いていても、声にできなかった。メールならできるし、筆談もありだけど……オアシス湖の世界のように思ったことが言語の壁を越える世界なら楽しくおしゃべりできるんだけどね。

 たくさん泣いた。
 私のしていることは、ちょうど逃げ水を追い駆けるのと同じだった。どんなに頑張っても、夢見ることしかできない。見えるだけで手が届かない。

 悔しくって泣いた。
 足下に水たまりができそうなくらい。
 ふと、見ると……水たまりの中に、あのオアシス湖畔に建つお店の屋根が見えた。
 しゃがんで、涙でできた小さな逃げ水に手を伸ばした。
 わずか、一時間未満でとんぼ返り。でも、店長はからからと快く笑うだけで、泣き顔の私を受け入れてくれた。
 そうね、心の底から逃げたいと願ったら、逃げ水に追い付いてしまったの。

 後は、その繰り返し。
 現実の世界では、数日頑張るのがやっとだった。それに、逃げ水のオアシスカフェにいた時間は、現実世界では何もなかったことになっていた。
 つまりね、《逃げたい》と願った時間と場面に戻ってしまうのが、辛かった。何度も何度も何度も、泣いてしまった場面からリスタートって、酷すぎると思うよ。浦島太郎みたいに、数十年後から再スタートとかだったら、良かったのにね。

 現実世界には理不尽なことや、意地悪な時間や、カッターナイフみたいに尖った言葉が跳ね回っているんだもの。
 舞い戻るたびに、店長は私を歓迎してくれた。泣いた理由は——店長にしか話せなかった。


 人の心は、《どこ》にあると思う?
 人の体のほとんどは水でできている。
 ちょっと難しいけど……脳細胞の中の微細な構造にある水分子が量子的な振る舞いをしている……それが、心の実体っていう説もあるらしい。
 だからかな? 異世界の水を飲むと、心が異世界に属するものに変わってしまうの。
 量子には、非局所性や不確定性原理といかいって、「ここに在る」と言い切れない性質があるとか……?
 店長からの受け売りだけど、きっと、そうだって気がする。
 だってね、《ここ》にいたくないって、強く願うと……私は、逃げてしまう。

 逃げ水の中にあるこの喫茶店は、本当に逃げ出してしまいたい人だけが来ることができる場所なの。だから、居場所のある人は、ここに来ることはあり得ない。お話ができる相手、解ってくれるお友達がいる人も来ない。

 あのね……
 私は、もう、しばらくここにいます。
 もしも、叶うなら、一緒にお話ししませんか。

今年の夏はとても暑い by 小稲荷一照

作:小稲荷一照
分量:12枚  使用お題:蝉時雨を聞く、蚊取り線香、肝試し、汗を拭う、ゲリラ豪雨、暑さを凌ぐ、逃げ水を追い駆ける、ライフセーバーの肉体、二度目の水浴び、花火、川遊び、海底、溺死者、日焼け止めの匂い、夜祭に紛れる、向日葵(ひまわり)、麦わら帽子、親戚の家、熱に倦む、茄子のぬか漬け、旱(ひでり)星、お盆、夏星の国は遥かに、麦茶、帰省ラッシュ、打ち水をする


 今年の夏はとても暑い。
 毎年そう思って過ごしている。
 ちょっと早い休暇でお盆の帰省ラッシュをすり抜けて、本家に帰ってきたわけだが、都会より暑い気がする。
 あまりにも酷い陽気だ。
 川遊びでも海水浴でも水辺にそう遠くも歩かないから繰り出せばいいわけだが、潮風と砂と日焼け止めの匂いが楽しく感じられるのも二日三日で、もう結構という気分だった。
 夏の陽の熱に倦む、というよりも手持ちぶたさな感じもあまり楽しいものでない。
 暑さを凌ぐために家にいるときは水風呂と縁側を行ったり来たりしている。親戚の家だというのにだ。
 今この瞬間も額の汗を拭うが、汗を拭っているのか、風呂のはねた水を拭いているのか、判然としない。まだ昼食には早いというのに、本日既に二度目の水浴びだ。
 海底なら涼しいだろうか。と冷たく感じられない水に頭の先まで潜る。
 網戸の窓の向こうから蚊取り線香の香りがする。
 焦げたような埃っぽい風を感じた気がして、額に浮いている水滴を指ですくって舐めてみて汗かどうかを確かめる。汗なわけはない。
 この時期台風シーズンまでは快晴が続くことも珍しくないわけだが、そうは言ってもこの炎天下では雨ならなんでも、たとえ溺死者がでるほどのゲリラ豪雨でもこの際大歓迎だと思わずにはいられない。庭や畑に打ち水するほどの雨でも良い。蝉時雨を聞くくらいの気温に早くなってほしい。
 どうやってこのデカい家屋敷を維持しているのかしらないが、大叔父夫婦は狭くもない畑仕事に精を出している。もちろん納戸の整理や戻ってきた農具の掃除や片づけくらいは顎代替わりに手伝っているわけだが、いやまぁそれはさておき、暑い。
 と、渡り廊下をリズミカルな足音が響く。さて出るかと思った時には湯屋の戸が開け閉めされる気配が、そのまま遠慮なく夏星が風呂場に入ってきた。
「なんだ、朝からずっと入ってたの?」
「食事一緒に食べたろ」
 夏星はラッシュガードのまま手桶で組んだ水をアタマからかぶる。
 乱暴に飛沫が飛ぶ。
「おい、ナツヒ=サン」
「ハイ。詰めて詰めて」
 少し前に流行ったイントネーションで発した苦情を夏星は無視して、押しのけるように風呂に入ってきた。狭くない風呂桶だが、二人入るにはちょっと譲る必要がある。というか、男女で入るには微妙な大きさだ。
「ああ、もうオレ上がるから」
「そう?わるいねぇ」
 風呂から立ち上がり出るや、悪びれている様でもなく夏星はラッシュガードと水着を脱いで、風呂桶の中で濯ぎ出す。夏星の肩から胸脇腹のラインの筋肉のうねりは蠱惑的というよりは動物的で、年頃の女性の裸体というよりはライフセーバーの肉体という感じで、不思議なくらい自然に素通りできた。向こうも素っ裸のこっちを無視したのだからおあいこだ。と思ったところでふと寂しさが駆け抜けた。
 水で冷えたカラダに陰の差す縁側の夏の風はそこそこ心地よく感じられた。
 大叔父夫婦は畑から帰っていた。大きな麦わら帽子のツバが細い大叔父の体には不似合いですぐに分かる。
 茄子のぬか漬けをアテに麦茶を頂く。
「おちついたかい」
「おかげさまで。片付けあります?やりますよ」
 庭先の向日葵の産毛が白く輝いているような気がする。
「様子見に行っただけだから、とくにないよ」
 逃げ水を追い駆けるかのように庭先を飛び跳ねる犬を目で追って、思わず眇めたのに大叔父は苦笑しながら言った。
「今日は花火だから、明日は少しは曇ると思うよ」
 そんなに暑そうな顔をしていただろうか。
「——だいたい毎年花火の翌日は曇りなんだ」
 大叔父が言葉をつないだ。
「それは助かるなぁ」
 遠くかかる入道雲はかなたの方で雨を降らせているのだろうか。
「祭りってわけじゃないが、屋台も出てちょっとした縁日のようになるよ」
 雲が羨ましそうに見えたのだろうか。ぼんやりと陽炎に目をやっていると、慰めるように声がかかった。
「観光客も多いんでしょうね」
「海水浴のお客が多いから、花火だけってのはまぁそこそこかな」
 大叔父は少しばかり計るような声で言った。
「沢にゆこうぜぃ」
 夏星が妙なイントネーションで背後から声をかけてきた。
 声に振り向けば、淡い草色のワンピースを着て冷たく湿気った髪を軽く風に膨らませていた。微かに男物のシャンプーのミントの香りがする。風呂に乱入してきた時よりよほど色っぽい。
「もう昼だろ」
「おにぎり握った」
 思いつきにしても計画的らしい。
 大叔父は軽く笑って縁側から腰を上げる。
「具は?」
「シャケタラコウメコブ」
 妙なイントネーションで夏星が応える。
 準備万端ということらしい。
「わかったよ」
 沢というのは裏手を流れている川でたしかに沢だが、大きな岩をのぞかせた石がちのそれはちょっとした深さを持っている立派な淵で、海と違って果てなく泳ぐということは出来ないが、林を抜けた川風は熱を捨て清しい。
 夏星は川遊びに誘ったのかと思えば、荷物を持ったまま少し上流に向かい岩を伝い川を渡る。
 子供の頃は岩の感覚が広く、ちょっとした肝試しのような感じだった。
 川原の脇の林は家のあたりとは時間の流れが違うようで、蝉時雨がうるさい。
 対岸の岩陰の小さな菜園ではトマトとナスが夏の木漏れ日に輝くように実っていた。
 火星菜園と書かれた看板。ナツヒの名前の由来である和名夏日星、通称火星を家庭と掛けたものらしい。
「ややこしいセンスだな」
 足元にあまり大きくないスイカを見つけて慌てて避ける。
「なにが?」
「火星菜園。ってさ」
「父ちゃんの日照り干しってセンスよりはいいと思うよ」
 日照り干しは瓜の味噌漬けを干したもので塩っぱい干瓢のようなというか、つまりは味付きの干瓢で、このへんの新しい名産だ。
「旱星か。火星がよっぽど好きなんだな。おじさん」
「犬の名前がマルスにフォボスにダイモスだからね。ハイカラにもホドがあるよ」
 夏星は呆れたように口にしながら、小さな畑の手入れを始める。
「いつの間にこんなところに畑作ったんだ」
「だいぶ前からあるよ。少しづつ広げてったんだ」
 おもての畑から苗や土をちょろまかしてきて少しづつ領地を確保していったらしい。
「我が国土は実りに満ちておる」
 トマトの艶を褒めるようになで、夏星はその実を摘む。
「最初は自販機代わりに、なんか果物か野菜がほしいなぁと思ったんだ」
 摘みたてのトマトを沢の瀬で軽く濯ぎ、弁当を広げるながら夏星はそう言った。
「ウチに婿に来る気ある?」
 夏星は唐突に尋ねた。
 それは漬物の味を尋ねるような気楽な口調の問いだったが、深い川音を意識させる声でもあった。
「考えたこともなかった」
 口の中の握り飯を飲み込む間だけ考えてやっと出た答えは、正直な気持ちだったがつまらない言葉だった。
「考えられる?」
 夏星の問いはまぁそうだろうという顔つきだった。
「考えるのはもちろんいいけど、……結婚いつさ」
「アンタ、彼女とかいないの?」
 申し出に前向きな答えを返したはずだが、酷い言葉が問いかけられた。
「——まさか童貞?」
 怯んだところに畳み掛けられた。
「大事なところはそこか?いきなり話を振っておいて」
「ああ、ええとね。ウチもこの辺じゃ古い家だからさ、付き合いも色々あるのよ。何処と付き合うの付き合わないのって」
 夏星は親戚のはずだが、まるで遠い別の国の話をしているような気もする。
「で、あちこちから面倒臭げな見合いの話があるということか」
「どれも悪い話じゃないんだけどね」
 スジの良し悪しよりも関係がハッキリすることが面倒になることもある、ということらしい。
「付き合ってる男はいないのか」
「いるよ」
 あっさり答えられて、握り飯をかまずに飲んでしまう。
「でもまぁこの辺の男衆だからねぇ」
 夏星は寂しそうに言う。まさか身内にそういう話が出るような家であるとは思いもよらないわけだが、混ぜ返すような雰囲気でも気分でもなかった。
「子供出来ちゃってれば違ったかもだけど、そういう勢いもなかったしね」
「結婚しようって持ちかけた相手にする話じゃないよ。それ」
 常識的に夏星をたしなめるが、気分がわからないわけでもない。
「そういうわけだから、後で祭りに一緒に行こう」
 正直なところ夏星の言うことの流れの重要そうな点については半分も納得も理解も出来ないが、どうやらこの話がしたくてここまで連れ出したことは理解できた。
 夕刻海岸沿いの国道であった男は笑顔の爽やかな素朴な感じで夏星の好みがわかるような気もした。夏星の「こちらが許嫁。こちらが今彼」という紹介に困ったような顔を浮かべる彼が少し気の毒な感じもした。
 どのみち二人で話す機会も必要だろうと夜祭に紛れるのは、花火客で賑わう中ではそれほど難しくはなかった。
 結局そのあと夏星との結婚の話は帰るまで出なかった。
 あのときの夏星の国は遥かに遠く感じたわけだが、改めて火星菜園の世話をしている今年の夏はまた格別にとても暑い。エンドウ豆が元気よく伸びている。

水を撒く by 藤原湾

作:藤原湾 HP:蒼傘屋
分量:9枚  使用お題:ゲリラ豪雨、花火、帰省ラッシュ、お盆、麦茶、打ち水をする


 子供の声が聞こえる。
 隣家に帰省している孫達の声だろう。わたしは、思わず目をつぶった。
 八月も中旬に入った。いつもは年寄ばかりのこの村も、都会へ旅立った子供達がそのまた子供を連れて戻ってくる。ひと時の活気を得る。
 三軒並び、わたしの家を挟んで両側の遠戚という名の友人達も、それを出迎えるため、忙しそうだ。常日頃は細々と畑をやりつつ年金暮らしのわたし達。昼を過ぎると、わたしの家の縁側に集って他愛ない話に花を咲かせるというのに。
 面倒だの、何だのと言いつつ、帰省する子供家族を出迎え、半年ぶりの孫の顔を眺めるのが楽しみなのだろう。八月に入ってからは、顔が綻んでいるのが分かる。
 わたしはひとり、蝉時雨を聞きながら、縁側で目を閉じる。


 夏の暑さは、お盆の準備は、否応にも思い出させる。
 わたしにもまた、毎年出迎える家族がいた。
 夫を早くに亡くし、田舎の広いだけが取り柄の民家に、ひとりで住んでいても、さみしくなどなかった。
 夏になり、世間がお盆休みだと、帰省だと騒ぐ頃には、わたしの家も賑やかになったのだから。


 見るたびに大きくなる孫娘が嬉しそうに車から降りてくる。
「おばあちゃん!」
 駆け寄ってきては、にこにこと笑うのだ。
「いらっしゃい、また大きくなったねぇ」
 頭を撫ぜると、誇らしげに胸を張る。その姿が可愛らしい娘だった。脇に置いていた柄杓と桶を持ち上げると、不思議そうにそれを覗く。
「おばあちゃんは何をしていたの?」
「これは『打ち水』だよ」
 玄関先の砂利石が濡れているのを指さしてから、桶から柄杓で水を掬い、ぱっと撒いた。
「こうやって水を撒くとね、涼しく感じるんだよ」
 風を感じたのか、孫娘は笑う。
「ほんと! すずしくなるね」
 他にもお客さんをお迎えする時に、玄関を清めるという意味もあるんだよ、と教えると、分かったか分からなかったのか不思議そうにふーんと呟いている。
「じゃあ、おばあちゃんはあたし達にようこそってするためにも、水まいてたの?」
「そうだよ」
 何かを思いついたらしい顔で、笑いかけてくる。
「じゃあえんりょなく、おじゃましまーす」
 どこで覚えてくるのやら、玄関で慇懃にお辞儀をして敷居をまたぐ。孫娘はそうしてから、振り返ってまた笑っていた。


 そんな思い出も、遠い彼方のようだ。蝉時雨の声だけが、わたしの耳に響く。
 笑みに包まれた思い出は煙のように消え去り、代わりに思い出すのは。
 ブラウン管の昔ながらのテレビ。空撮された高速道路。画面端に書かれた「十二台玉突」の文字。
 思わず電話を取ったのを思い出す。
 もしや、まさか。
 事故について繰り返すアナウンサーの声はもう耳に入らなかった。
 息子の携帯電話は「電源が入っていないか電波の届かないところに……」とアナウンスを繰り返すだけだった。
 彼らが帰省するはずだった八月十三日は、誰も迎えないまま終わったのだ。


 あれから一年。
 またうだる暑さの夏が来ている。
 それでも迎える相手のいない玄関先に水を撒く気にもなれず、ただ縁側で蝉時雨を聞いていた。
 昔はよく降った夕立も、今は『ゲリラ豪雨』なんぞに出番を取られている。まだまだ寝苦しい夜が続くのだろう。
 わたしはそれでも動けなかった。
 あの子達を迎えるための打ち水を、あの笑顔が見れないのに撒く気にはなれなかった。


 ふと、目が覚める。そのまま転寝をしていたらしい。少し涼しげな風が風鈴を小さく揺らしていた。
「お邪魔してるわよ」
 声がして、ゆっくりと体をそちらに向かせる。左隣の友人だ。
「……孫が来てるんじゃないの」
「あまりに煩いから、避難してきたわ」
 わたしの頭を撫でる。まるで子供にするように。
「煩くしてごめんなさいね」
「——子供だもの。仕方ないわ」
「でも」
 そこで言葉が止まった。言いたいことは分かる。でも気を回してほしくなかった。思い出したくないそれを思い出させるのは。
 勢いをつけて起き上がる。彼女は「腰を痛めるわよ」と言う。
「麦茶、飲んでいく?」
「ええ頂くわ」
 台所へ抜けて、冷蔵庫からコップ二つと麦茶のペットボトルを出す。冷えたコップで入れると冷たさが保たれるような気がして。
 思わず笑ってしまう。もう必要ないのに、コップが四つ入っていることに。
 麦茶を注いでから、彼女に渡す。冷えたコップを当然のように受け取った。
「夜ね、うちの孫達が下の河川敷で花火をするのよ」
 彼女は麦茶で口を潤してから、呟いた。冗談ではない、そんな楽し気な場に出ていけるほど、わたしは強くない。
「——行かないわよ」
「私も行かないわよ」
「は?」
 耳を疑った。
「河川敷なんて、足場も悪いし、まっぴらごめん」
 コップの中の麦茶を飲み干して、コップを押し付けられる。
「あっちのばーさんも、避難したいって。娘が甘えてあれやこれやって言ってくるんだってさ」
 右隣の家を指さしてから、彼女は縁側から立ち上がった。
「だから三人で、今夜夕涼み会をしましょうよ」
 あぁ。
 分かってしまった。
 わたしがさみしいのを、分かられてしまった。苦しくて仕方がないのを、悟られてしまった。
 彼女達は何も言わない。そう、この一年何も言わなかった。
 ただ普通のように、常のように、わたしと共に居てくれたのだ。
「……大きなスイカが取れたの」
 わたしは呟いた。それから笑った。
「裏の井戸で冷やしておくわね」
 彼女も、嬉しそうに笑った。


 夕食の準備をするのだろう、いったん隣家へと帰って行った彼女の後姿を見ながら、わたしは立ち上がった。
 日が傾き少しは気温も落ち着いたのだろうが、まだまだ暑い。
 雨水を貯めた桶と柄杓を持ってきて、その水を玄関先に撒いた。
 わたしのために来てくれる大事な友人たちのために。
 わたしは人知れず、笑みを浮かべていた。

ナツとの遭遇 by sagitta

作:sagitta HP:ある日の空の顔。
分量:25枚  使用お題:蝉時雨を聞く、親戚の家、汗を拭う


1.
 ミーンミンミンミンミンミンッ、ミーーーンッ………ジーッジーッ……
 ツクツクボーシッ、ツクツクボーシッ……
 こまくと直接つながるうめこみ型スピーカーを通して、どう考えてもノイズにしか聞こえない不快な音が、僕の耳の中にひびきわたる。
「ちょっとSari! なんなのこの変な音?!」
 僕は、声に出さない思考通信で、体内接続中の『人格インターフェイス』に抗議する。
『ご指示のとおりにしただけですが』
 悪びれもしないすずしい機械音声で、人格インターフェイス、Sariが応える。……まぁ、Sariは機械だから、悪びれるなんてことはないんだけどさ。
「僕は、夏を感じさせてくれ、って言ったんだよ。なのになんなのこの雑音……」
『蝉しぐれです』
「えっ」
『蝉しぐれです』
 Sariがくり返す。どうやらさっきの雑音のことを言っているらしい。
『かつてシティにも生息していた、節足動物昆虫類の一種の鳴き声です。これらの種は、成体が夏にのみ活動して鳴き声を上げていたため、こうした音は『夏の風物詩』とされていました。当時の人々は、蝉しぐれを聞くことで夏を感じていたとされます』
 Sariが淡々と説明する。この雑音で「夏を感じる」だって? ……昔の人って、わけがわからない。
『立体映像を展開します』
 僕が納得しないことにしびれを切らしたのか(機械がしびれを切らすことなんて、あるとは思えないけれど)、Sariが出し抜けにそう言ったとたん、僕のまわりの風景が一変した。
 僕はまっしろなかべにかこまれた自分の部屋にいたはずなのに、いつの間にかそこは、林の中だった。Sariが、僕のもうまくにうめこまれたディスプレイに接続して、立体映像を展開したんだ。
 僕をとりかこむ背の高い木々。おいしげった葉っぱのすき間からさしこむきらきらした光は、太陽の光。いわゆる日光、というやつだ。そして、こまくに直接ひびく、蝉しぐれの音。
 Sariの誘導にしたがって僕が一本の木の幹に目をやると、視覚がズームモードに切り替わった。木の幹の一部がアップで映し出され、そこにへばりついていたきみょうな生きもののすがたが大写しになる。
「うへぇ」
 僕は思わず、悲鳴を上げていた。
 緑と黒のまだらもようの体。どう考えても大きすぎるすきとおった羽根。ロボットアームみたいな細長いたくさんのあし。そして、どこを見ているのかさっぱりわからない、宇宙人みたいな顔。
 節だらけのおなかを一生懸命にゆらしながら、僕の手のひらよりも小さい体からは考えられないほどの大音量で、ミーんミンミン……と、壊れたモーターのような声を上げている生きもの。
 ハッキリ言って、キモチワルイ。
「もういいよ、消して」
 僕がうんざりしながら言うと、周囲の林は一瞬にして消え去り、僕は元通り自分の部屋にいた。
『どうです、ソラ。夏を感じられましたか?』
「感じられるわけないよ!」
 無神経にたずねるSariに、僕はちょっとだけいらいらした声で(声といっても思考通信だけど)応えた。あんなのが夏だなんて、意味がわからない。
「とはいえ困ったなぁ……」
 僕は思わず口に出してつぶやいた。うちにいるのは僕だけだから、これは聞かせる相手もいない、独り言。
 どうして困ってるかというと、夏休みの宿題のせいだ。今年の夏休み、学校で出された宿題は一つだけ。
 それが、「夏を感じてくること」。
 ちょっと変わり者で知られる担任の先生は、「なかなかうまい宿題を出した」と思っているらしく、とくい顔だったけど、生徒たちはいっせいに困惑の顔を浮かべていた。
 僕たちは夏を知らない。夏が――季節がなくなってから生まれた世代だから。
『博士に、相談してみたらいかがですか?』
 Sariがそう提案してくる。
 そういえば先生も、お父さんやお母さんに聞いてごらん、って言ってたな。できればパパの力を借りずにやりたかったんだけど……しょうがないか。
「うん、そうする。Sari、パパに通信をつないで」
『承知しました』
 Sariが答えるのと同時に、僕の頭の中に小さなコール音が鳴りはじめる。
 研究者のパパは、いつだっていそがしい。パパが家で過ごすことなんて、一年に全部で10日あるかないかくらい。
 いつだってシティの中心にある研究所にこもって、朝から晩まで仕事、仕事、仕事だ。
 一度だけパパの職場を見学させてもらったことがあったけれど、パパは僕のことなんてそっちのけで仕事に夢中で、つかれきった僕が先にホテルにもどったことにも気づいていなかったくらいだ。
『ソラじゃないか、どうかしたのか?』
 かちゃ、という小さな音と同時にコール音がとぎれて、久しぶりに聞くパパの声が頭の奥に飛びこんでくる。同時に僕の網膜に映像が展開。目の前にパパのすがたが現れる。よれよれの白衣をきて、白髪がまじりはじめたボサボサのかみのけ。大きな目だけが子供みたいにキラキラと輝いている。
 いつもめちゃくちゃにいそがしいパパだけど、僕からのコールにはかならず出ることにしているんだって。僕にも「いつでも遠慮しないでコールしてきていい」と言ってくれてる。それが、パパが僕にした、たったひとつの約束。
 だから、会えないのがさびしいときも、まぁ、ないわけじゃないけど、がまんがまん。なんたってパパは、この都市でいちばんの天才研究者なんだから。
「パパ、夏休みの宿題について相談したいんだけど」
 僕がそう言うと、パパはうれしそうに大声を上げて笑った。
『夏休みの宿題か! ソラもそういうのをやる歳になったんだなぁ』
 「そういうのをやる歳」だなんて、パパったらすっとぼけてる。いつまでも僕が赤ちゃんだと思ってるんだ。僕が学校から宿題をもらってくるのなんて、もうずっと前からのことなのにさ。
『任せとけ! それで、どんな宿題なんだ?』
「夏を感じてくること、だって」
 僕が短く応えると、パパは驚いたように目を丸くして、それからにやり、と笑った。
『ほう……なかなか詩的な宿題だな。なるほど……なるほど』
 パパはその宿題が気に入ったらしい。なんだか満足そうにうんうん、とうなずいてる。パパも変わり者だから、きっと先生と気が合うんだな。
「何をしたらいいかな?」
 たずねた僕に、パパはとっておきのイタズラを教えるガキ大将みたいな顔になって、ニヤリと笑った。
『ぴったりの方法があるぞ。夏休みの間に、コータローのところに行ってくるといい』
 その言葉に、今度は僕が驚く番だった。
「えっ、コータローおじさんのところに?」
『ああ、パパから連絡しておくよ。行き方や必要なものは、あとでSariに伝えておくから。出発は……そうだな、明日の朝にでも』
「えっ、ちょっと待ってそんな、いきなり」
『そうかそうか~、うんうん、そろそろ行かせようと考えていたが、なるほど、なるほど、これは、ちょうどいいタイミングだな!』
 戸惑う僕のことなんて目に入らないかのように、パパはひとりで納得して何度もうなずいている。こうなっちゃうと、パパは人の話なんて聞きやしないんだ。
『細かいことはSariに聞くといい。Sari、ソラを頼んだぞ』
『ええ、お任せください、博士』
 パパに声をかけられて、Sariがうれしそうに応える。機械の声に感情なんてないはずだから、もしかしたら僕の気のせいかもしれないんだけど……パパと話すときのSariの声は、たしかにうれしそうに聞こえるんだ。それもそのはず――パパは、Sariの生みの親だから。
 今じゃ人口の80%以上が自分用を持っているとまで言われる、人格インターフェイス『Sari』は、僕のパパ、ソウタ博士の発明品だ。「Sari」という名前はなんちゃらかんちゃらインターフェイスの頭文字をつなげたもの――と、公式発表によればそう説明されているけど、実際はそれが病気で死んじゃった僕のお母さん――つまり、 パパの奥さんの名前からつけられた名前だってことは、パパの知り合いならみんな知ってる。
『じゃあな、ソラ。健闘を祈る!』
「ちょっ……」
 そう言ってパパは、僕が止めるのもおかまいなしに一方的にコールを切った。きっと今頃もう、パパの頭の中は次の仕事でいっぱいのはずだから、もう一度かけ直すのも気が引ける。僕はあきらめて、ため息をついた。
「もう……あいかわらず強引なんだから」
『さっそく、出かける準備をしましょう。ほら、博士から持っていくものリストが送信されてきましたよ』
 Sariの声が、心なしかはずんでるみたい。まったく、こういうところはパパにそっくりなんだから……。
 そんなふうに思ってからふと、僕はある事実に思い当たる。そっか。僕とSariは兄弟みたいなものなんだな。生まれたのは僕の方が先だから、僕がSariのお兄さんだ。
 そう思うとちょっとだけ気分がよくなって、僕はむねをはってSariに命令した。
「赤いぼうしを用意して、Sari。あれを持っていこう」
『博士に買ってもらったぼうしですね。承知しました、ソラ』

2.
 我々が季節と気候とを失ったのは、前世紀の終わり頃。
 惑星規模の気候変動と、多重の要因による異常気象の連続、そして深刻な大気の汚染により生存に適さなくなりつつあったこの星で、快適に暮らし続けるため、我々人類は大きな決断をした。
 それが、都市ドーム化計画、通称『エデンプロジェクト』である。これにより、我が国の人口の80%が居住するシティはすべて巨大なドームに覆われ、内部環境は完全にコントロールされることになった。これにより我々は、祖先たちの永年の悲願であった、「天候や災害からの解放」を果たしたのである……。

 僕がエアスクーターにまたがって、リニアメトロのステーションに向かうあいだ、Sariが僕の頭の中で、『シティの歴史概説』を読み上げる。このシティができたとき――つまり僕が生まれる前のことだけど――につくられた宣言で、僕らも学校で何度も聞かされた内容だ。……とはいえ、それがどういうことを言っているのか、実はあんまりよくわかってない。僕が生まれ育ったシティには、はじめっから「季節」とか「気候」なんていうものはなかったんだから、それがなんなのか、僕たちが実感するのは難しい。
「先生が言ってた『夏』っていうのは、『季節』のひとつ、なんだよね?」
『ええ。ちょうど今の時期、つまりカレンダーでいう8月ごろは、「夏」という季節に当たっていました』
 僕が確認すると、すぐにSariが応える。
「夏っていうのはたしか……太陽が出ている時間が長くて、植物がよく育って……あと、なんだっけ?」
『気温と湿度が高い。つまり、「むし暑い」、です』
 そうそうそれだ。たしかに授業で習った記憶がある。でも、むし暑いって……いったいどんな感覚なんだろう?
 自動操縦のエアスクーターで道を進みながら、僕はふと、真上を見上げてみた。シティをつつむドーム、その天井の内側には最新式のディスプレイがとりつけられ、真っ青な空と、ところどころにうかぶ白い雲を映し出している。この天井の向こうには、本当の「空」が広がっているらしい。僕の名前の、元にもなった「空」。
『ソラ、そろそろ終点につきます』
 Sariの声で、僕ははっと顔を上げた。シティの中を縦横無尽に走るリニアメトロの、その終点ステーションまで来たのは、生まれて初めてだった。僕だけじゃない。きっとスクールのクラスメイトたちだってたぶんだれひとり、ここまで来たことはないだろう。
 うす暗い終着駅にぽつん、とかがやく電光掲示板に示された文字は、「シティ出口」。シンプルすぎる駅名。だれもいない駅。いつもたくさんの人でにぎわっているシティ中心部のステーションとは大違いだ。
 車両が停止すると、すっと、音もなくリニアメトロの扉が開いた。
『どうしました? 降りますよ、ソラ』
 なかなか動けずにいる僕に、Sariが心配したような声をかけてくる。
「わかってるよ」
 僕はつばをのみこんで、ゆっくりと立ち上がった。背中にしょったリュックサックが肩に食い込んでずっしりと重い。こんなにたくさんの荷物を持ったのだって、はじめてかもしれない。
 僕はリニアメトロを降りて、ステーションのホームに降り立った。
 ブッブッ。
 背中の方から聞きなれない音が聞こえてきて、僕はふり返った。
 ホームを出たところに、旧式のでかい自動操縦のジープが一台とまっていて、どうやら僕を待っていたみたいだった。
「オマチシテオリマシタ、ソラ。サア、オノリクダサイ」
 ジープから、旧式感丸出しの平板な機械音声がする。
『コータロー博士からのお迎えのようです』
 Sariに言われるまでもなく、そんなことはわかってる。イマドキこんな古い車を使ってるなんて、きっと、おじさんしかいないに決まってるもん。
 僕はかくごを決めて、座り心地の悪いジープの座席に乗り込んだ。僕が乗ると、ジープの扉がバタンッと音を立てて閉まった。
「オツカマリクダサイ」
 そう言ってジープは走り出した。ガタガタという振動が座席に伝わって、しっかりとつかまってないとおっこちてしまいそうだ。
「コータローおじさんに会うのは、すっごく久しぶりだよね」
『はい、記録によれば、1823日ぶりです』
 僕の独り言に、Sariが細かくこたえる。1823日だなんて、思い出すこともできないほど遠い昔。前にコータローおじさんが来たときには僕はまだ全然子どもだったから、おじさんのことはほとんど覚えてない。それに、前はおじさんがシティに来たんだ。だから、おじさんがふだん住んでいるところに行くのは、これがはじめてだった。
 そう、おじさんは、シティの外に住んでいる。
 人口の90%以上がシティに住んでいるんだから、これは特別なことだ。
 コータローおじさんは、お母さんの弟でパパと同じく研究者だ。だけど、コータローおじさんとパパは全然ちがう。おじさんは「生物学者」なんだ。地球に残された生きものを研究するために、わざわざシティの外にある「特別保護区」にいるんだ。
『シティを出ます』
 頭の中にひびいた、Sariの声。なんとなく緊張しているように聞こえたのは、気のせいだろうか。考えてみれば、僕専用のSariは生まれたときから僕といっしょなんだから、Sariだってシティから出るのははじめてなんだ。
 僕だけを乗せた旧式のジープは、ガタガタと音をさせながら進み、シティの出口へと僕を運んでいく。目の前に見えていた銀色の扉が、静かにスライドした。
 強い光が飛び込んできて、僕は思わず目を閉じた。
 この先にあるのは、まだ見ぬ外。「夏」の世界だ。

3.
 ミーンミンミンミンミンミンッ、ミーーーンッ………ジーッジーッ……
 耳をつんざくようなその音が、「蝉しぐれ」だということに気がつくまでに、しばらく時間がかかった。それはSariが聞かせてくれた録音とは全然ちがっていて、なんだかむねにせまる必死さと激しさをもっていた。まさに、生きものの声、という感じ。
 ジープが停止して、僕たちが降り立ったところは、かつて立体映像で見たような、背の高い木々におおわれた森だった。僕はすっかりと体中をせみの声につつまれていた。真上からはまぶしい太陽の光がふりそそいで、僕の体に照りつけていた。
 そしてなにより――
「いったいなんなの! 空気がぬるっとしているし、なんだか体全体が熱があるみたいにぼうっとする。それに、体から汗があとからあとから出てくるよ……」
『気温32度、湿度75パーセント。これが、『蒸し暑い』というものですね』
 生まれてはじめて「汗を拭う」ということをしながら悲鳴を上げる僕と、すずしい声で説明するSari。そりゃ、Sariは体がないから、この「蒸し暑さ」もわからないだろうけどさ。まさか、「蒸し暑い」ってのがこんなに苦しくて、不快なものだとは知らなかった。
「あっ、もうダメだ、目が回る……」
 顔がぐわーっと熱くなって、世界がぐるぐる回りはじめた。視界がどんどん暗くなっていく。
『ソラ、大丈夫ですか? 意識レベルが低下しています、このままでは……』
 心配するSariの声を耳の奥で聞きながら、僕の意識は、遠のいていった。

*  *  *  *  *

 ぼんやりとした意識のなかで、僕はぬくもりを感じていた。だれかが僕の頭をやさしくつつみこんでゆっくりとなでてくれるのを感じる。
 あ、これは、お母さんだ。僕が5歳のときに、病気で死んじゃったお母さん。とてもやさしくて、あったかい人だった。ひざの上に僕を乗せて、よくお話をしてくれたんだ。お母さんが小さいころの話。まだ、シティがドームにおおわれていなかったころの話。生きものが好きで、弟といっしょに森の中でかけまわって生きものをつかまえていた話。
 久しぶりにぬくもりにつつまれて、僕はしあわせな気持ちでそれに体をゆだねた。
 不意に、僕のくちびるに、やわらかくてちょっとあたたかい感触がした。
 どこかから声がする。やさしい声。お母さんの声?

「……じょうぶ?」
 その声に応えるように、僕はゆっくりと目を開いた。
 目の前に、心配そうな女の子の顔。
「だ、だれっ?!」
 僕はびっくりして、急いで体を起こした。僕の頭にあったぬくもりがふっと消える。ん? ぬくもり? 今の今まで自分の頭があったところに目をやると、僕の顔は一気に熱くなった。なんと、僕は知らないうちに、女の子にひざまくらされてねていたらしい! それに、まだくちびるに残るやわらかい感触――。
「もう大丈夫そうで、よかった。水を飲ませといたけど、もっと飲んだ方がいいよ」
 あわてふためく僕と対称的に、女の子がおだやかに笑って、水筒に入った水を差し出してくる。歳は僕と同じか、少し年下くらい。肩までのばした真っ黒なかみの毛と、チョコレートみたいな色の顔。顔だけじゃない、白いノースリーブシャツからむき出しになったうでも、ジーンズ生地の短パンからのぞくふとももも、みんなチョコレート色だ。「夏には、みんな日焼けして、真っ黒だった」。そんなお母さんの昔話を、ふと思い出す。
「えっと、僕は……どうしたんだっけ?」
『突然の蒸し暑さに体がついていかず、意識を失っていたようです。今は血圧、体温など正常にもどっていますが……あれ? また脈拍が少々上昇しています。これは……』
「あー! あー! それはいいの! ちょっとだまってて!」
 僕はあわててSariの言葉をさえぎった。
「どうかした?」
 女の子が、ふしぎそうに首をかしげてこっちを見つめてくるから、僕の心臓がまたどくん、と音を立てた。
『ソラ、脈拍の上昇が――』
 頭の中で告げてくるSariの言葉を無視して、僕は女の子にむきなおった。
「えっと、そ、その、助けてくれたんだね、ありがとう」
「ううん」
 僕が言うと、女の子はふんわりと笑って、首を横にふった。
「僕は、ソラ、っていうんだ。えっと、君は?」
「――ナツ」
 女の子が、僕の目をまっすぐに見つめたまま答える。
 それでようやく僕は思い出した。コータローおじさんに、娘がいること。僕のお母さんが頼まれて、夏生まれのその子に「ナツ」と名づけたこと。
「ソラ、あたしの友達になってよ」
 ナツが、チョコレート色の手を僕に差し出してくる。
「あたしが夏のいいところ、たくさん教えてあげる」
 意を決して手を取った僕に、ナツがいたずらっぽく笑いかける。
『楽しみですね、ソラ』
 Sariもそんなことを言う。
 ふと、風がふいた。葉っぱと葉っぱがこすれ合って、ささやきのような音を立てる。葉っぱのすき間からは細かくなった太陽の光――そう、たしかこれは「こもれび」っていうんだ――がふりそそいで、僕らを照らしていた。木々にさえぎられたこもれびには、僕を責め立てるような熱さはもうなくなっていて、それにほてった体をくすぐる風が心地よくて、僕は少しだけ夏が好きになれそうな気もちになってきていた。
 いつの間にか、ノイズみたいだったせみの声が、心地よいBGMに変わっていた。僕はナツに手を引かれたまま、森の中を歩きはじめた。靴底に感じる、土の感触。てのひらに伝わる、汗ばんだぬくもり。
 僕の今年の夏は、まだまだ暑くなりそうだった。

逃げ水様 by ぷよ夫

作:ぷよ夫
分量:30枚  使用お題:茄子のぬか漬け、逃げ水を追いかける、お盆、麦茶


I 【不思議な水】
 首都圏の縁からちょっと離れたところにある、絶賛過疎化進行中の農村の、そのまた奥地に掘っ立て小屋、もとい某水質研究所の第七支部が建っていた。略して七水研。
 ほぼ自然のまま流れる清流がすぐ脇に流れており、主な役割といえばその清流の水質管理や、周囲の山に対する土砂崩れなどの監視だ。雨の多い磁気でもなければ暇なことが多い。
 建屋と砂利引きの駐車場までは、細いが綺麗な舗装路が残っている。元々広くて立派な道路が通ってた形跡があるが、今は必要なだけ再整備されていた。
 ここから先は道の状態が悪く、徒歩か特殊な乗り物でないと厳しい。

 お盆休み前の、とある夏の日のことである。
 七水研の事務室権研究室で、ちょっとした騒動が起きていた。
 いつもどおり水質調査のためにポリタンクに入れて水源から汲んで来た水を、検査のため抜き取ろう蓋を開けたところ、ぼしゃっという音ともに一部が飛び出してしまった。
 床にちょっとした水溜りが出来る。
「山城ぉ、なにやってんだよ」
 見ていた所長の霧島が、新人の山城に半分笑いながら注意した。
「さーせん、所長。あれぇ、普通に開けただけなんだけどな」
「たまにそういうこともあるさ。はい、雑巾」
「あ、どうも、望月さん」
 七水研の紅一点、四捨五入して一応二十歳に留まる望月が、雑巾を持ってきた。
「さっさと片付けます、ってあれ?」
 山城がこぼれた水を雑巾でふこうとした、いや確実にふいたつもりだったのだが、なぜか雑巾は全くぬれていなかった。
 かわりに、こぼれた水の位置が雑巾一つ分ずれている。
「なにこれ?」
 望月もふいてみる。
 同じことがおきた。ふこうと手を出すごとに、こぼれた水が移動する。
「そんなに雑巾が嫌いなのか」
 さっと手を出すとやっぱり動かれた、いや逃げられた。
「アホかっ。そ、れっ!」
 望月が空いた左手でフェイントをかけつつ右手の雑巾を叩きつける。が、両方よけられた。
「いわゆる逃げ水、ってやつかね」
 霧島がのっそりよってくる。
「所長、日本語が変っすよ」
「ばーか、ばーか、逃げ水のばーか」
 山城を無視して霧島が水溜りに罵声を浴びせる。
「ナニやってますか? まるでアホですわ」
「いや、アホはこの水だ。罵声に反応しないとなると、特に知能はない」
 霧島が妙に冷静に言いつつ、ドライヤーを水溜りに突きつけた。
 ささっと、水溜りがスライム状に盛り上がって、すすっと部屋の隅っこに移動した。
「なんだ、賢そうじゃないですか」
「いや、アホだよ。コンセント入ってないんだが」
 ぷらぷらとドライヤーのプラグを霧島が山城たちに見せる。
「望月君、とりあえず物置からタライを持って来てくれんか? あと、フラスコも」
「それなら僕が持ってきます」

 かくして、部屋の一角に大きなタライと、その真ん中に大きなフラスコが置かれた。
 そして、霧島たち三人で、雑巾を持ってこの奇妙な水溜りを取り囲んだ。
 静まる一呼吸。
「せーの、いちに、いちに!」
 霧島の掛け声とともに、同時に床を雑巾でこすりはじめた。
 水溜りは雑巾に触れないように、右へ左へと避けていく。だが、徐々に追込むように範囲を狭められ、致し方ないとばかりにタライの中に入り込んだ。
 だが器用にもフラスコを避けてドーナツ状になっている。
「あのフラスコに入る量ですが、どうやって突っ込むんすかね」
「まあ、見てろ」
 霧島はタライの回りに新聞紙を敷き詰め、最後の一枚を広げて手に持った。
「いーちにーの、さん!」
 ばさり。
 逃げ場を失い、新聞紙に吸われるかと思いきや――霧島の策略どおりに、ずるっとよじ登ってフラスコに飛び込んでしまった。
 すかさず霧島が、覆いかぶさった新聞紙を、フラスコにぎゅぎゅっと詰め込んで栓にした。
「はい、確保!」
 謎の水溜りは、こうしてフラスコ水になったが、一つ普通の水と明らかに違うところがあった。
 フラスコ内の中空に、球体になって浮いていたのだ。

「所長、確保はしましたが、どうします?」
 山城がフラスコをつつきながら言った。浮いてるくせに、中の水がプルプル震える。
「さしあたり、凍らせてみっか。望月、冷凍庫にしまっといてくれ」
 霧島が余った新聞紙をむしりとり、残ったぶんを押し込むと、上からキッチリとゴム栓して望月に渡した。
「はーい」
 ――数分後。
 望月が、凍ったアユやヤマメ、イワナなどをタライに積み上げて戻ってきた。
「誰ですか、勝手に私物を入れたのは。フラスコを仕舞うのに苦労しましたよ:
「あ、全部俺だわ」
 望月のクレームに、霧島が少し顔を引きつらせて答えた。
「もう、釣ってくるのは良いですけど、ここで冷凍しないでください!」
「すまん、すまん」
「それじゃ所長、アレが凍るまでみんなで焼いて食いましょう!」
 旨そうな川魚を山城が塩焼きにしようと企む。
 だが「だめだ」と霧島が却下した。
「良いじゃないっすか、忘れてたんすよね?」
「ああ、忘れてたとも。それ、全部一昨年から入れっぱなしだ。もう食えんよ」
「なーんだ。じゃ、その辺に僕が埋めてきます」
「嗅ぎ付けて、クマでも出たら困るではないかぁ」
 がおっ、とばかりに望月がクマのまねをする。
「この時期にでませんって」
 と、山城はスコップを取りに物置に向かった。

 無駄になった魚を土に返すのに約一時間。
 戻ってきて、そろそろ凍ったかなと、山城は冷凍庫からフラスコを取り出した。
「はぁ」
 ため息とともに、本日何度目かの奇妙な光景を目にする。
 フラスコの中身は、気泡が入ったゼリーのように内部に空洞を作り、表面だけ薄く凍結していた。ちょうど空洞の分だけ膨らんだように見える。
 周りからつついてみると、内部の空洞がプルプルと震えた。
「真空断熱、かな」
 望月がさっきより少し内側に移動した新聞紙の詰め物を指して言った。
「気化熱で表面だけ凍った他は、液体のまんま、ってことか。よくまあ、被害を最小限に留めたもんだね。なかなか高度な知性を持っているようだ」
 と、霧島が苦笑しながらフラスコの中身に見入った。
「さっきと、言ってることが違うじゃないっすか:
「知性があるのとアホなのは違う」
「そういう問題かなぁ。じゃあ、これ試してみない?」
 望月が、小さなフラスコを持ってきて、蓋をはずすと同時に、フラスコの口どおしをくっつけた。
 そのまま、バシャバシャとシェイク――すると、うまいこと一部が小さなフラスコに移った。
「それ、赤外線レーザー分光器に入るか?」
 霧島は、最近本部からふんだくるように仕入れてきた、最新式の赤外線分光器をさして言った。赤外線の吸収スペクトルから成分を分析する装置の、最新機種だった。
「入ると思いますけど、うまくいくかなあ」
 望月は、うまく出ても結果は「ただの水」じゃないかと半信半疑のまま、装置の蓋を開けて中の水玉がレーザーに当たる位置にフラスコをセットした。
「測定開始」
 蓋を閉め、開始スイッチを押す。
「そんなのありか」
 直後、中をのぞいていた山城が素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたのよ、って、えー!?」
「馬鹿馬鹿しいくらいに予想通りの動きをしやがったな」
 霧島、望月とも驚き、あきれた。
 丁度レーザーをよけるように、ドーナツ状になっていたのだ。
「今日はこの辺でおしまいにしていいっすかね」
「ああ。いつもの水質検査をやらないと、本部にどやされる」
 霧島はあきらめ半分にこの日の実験をとりやめた。

II 【逃げ水様】
 夕方、仕事を終えた霧島たち三人は、里の村の数少ない飲食店である、小さな蕎麦屋に晩飯を食いに出た。
「あいよ、ビールとおコウコ先に置いとくよ」
 店のオカミサンが瓶ビールと、おつまみ代わりに茄子のぬか漬けを先に出した。おコウコとは、この辺りの言葉で御新香のことだ。
「しかし、水って普通はこうだよな」
 飲めない山城がコップの麦茶を見ながら言った。飲めないついでに運転担当。
「だね。逃げ水って言ったら、普通はあれだわ」
 丁度店のテレビで夏らしい場面が映されていた。からっと熱そうな道路に、逃げていく影。
「まったく、おかげで俺まで残業だ」
 霧島がぼやきつつ、コップにビールを注いだ。
「じゃ、今日はご苦労さん」
 かつん。麦茶と麦酒でとりあえず乾杯だ。
 疲れている成果、山城にはただの麦茶が妙に旨く感じた。
 いや、旨いのはそれだけではなかった。
「お、この茄子!」
 山城が爪楊枝で一切れぷすり。ただの茄子のはずなのに、驚くほど旨かった。
 残る二人も口にして、味の良さに思わず笑みが浮かんだ。
「この茄子が、ぅんめえの分かったけ?」
 オカミサンがうれしそうにもう一皿、茄子のぬか漬けをもってきた。
「ええと、普通の茄子っすよね?」
「んだ。ここらの畑で取れた、普通の茄子だ。アタシが毎年こしらえてる、毎年おンなしおコウコだ」
「毎年、この味なんですか……」
 山城が茄子を眺めながら言った。
「そらま、一本ごとにちこっとは違うけンど、おんなじだぁよ」
「そうそう、毎年美味しい茄子だよな」
 オカミサンの言葉に、霧島が相槌をうつ。
「ああ、山城君は今年赴任してきたばかりだったわね」
 と、言いながら、望月は茄子をもう一切れ口に放り込んだ。
「家ごとにキャラが違うけど、この辺りじゃどこでも漬物のクォリティは高いわ。その代わり、スーパーに市販の漬物を置いても全然売れないのよ」
「分かる気がします」
 山城は、スーパーやコンビにで売っているものは、好みや良し悪し以前に“別物”だと思った。そして、都会育ちの彼は、そんな市販の漬物しか食べたことが無かった。
 そして「あの水も、別物か」と、呟く。
「どうした、山城」
「あの水のことっすよ。水は水でも別物と思ったんで」
「どう考えても別物だろうな」
「おっ、さすがでねえか。水の仕事してるだけあんなぁ。ほれ、ザル蕎麦みっつ」
 ちょうどそこに、店の主人が蕎麦を茹で上げて持ってきた。
「ここらは水がええからな、茄子も蕎麦も旨ぇだよ。米もええからよ、ぬが漬けのぬがもええ」
 この辺りの水は名水だ。だからこそ七水研が設置されている。
 山城はいまさらのように気がついたが、このあたりで食べるものは何でも旨い。水が旨いから何でも旨い。
 だが、これと例の水とは別件た。
「ところでご主人、この辺りで“変わった水”の話とかご存知ないでしょうか」
 ここぞとばかりに、ぱちんと割り箸を二分割しながら霧島が尋ねた。
「酒の肴になりそうな面白いのを、ね」と、望月。
「変わった水け……カァちゃん、何かあっかな」
「な~んだっけかな、婆さんから聞いた気がするんだけどよ」
 オカミサンが蕎麦湯を要しながら首をかしげた。
「ほだったら、ぬんげむずさまのハナスがあっと」
 店の一角から強烈に訛った爺様の声がした。先に来て天ぷら蕎麦をすすっていたお客だった。
「ぬ、ぬんげむずさま?」
 山城は、爺様の言葉を何とかまねしてみた。書き出してみる「ぬんげむずさま」になりそうだが、実際の音はかなりかけ離れている、
「ははっ、“にげみず様”だぁよ。他所の人にはわかんねえべな」
 オカミサンが笑いながら言った。
「逃げ水!?」
 そこに三人が同時に聞き返す。
「んだ、そこらの逃げ水と違うど。おっかけてくと、逃げるんだわ」
 と、爺様。
「もしかして、雑巾でふこうとすると、さっと避けるとか?」
 望月が恐る恐る訊いてみた。
「んだ、よぐ知ってんなゃ。見たんけ?」と爺様。
 霧島は持ってきていた小さいほうのフラスコを出して見せた。
「ほら、このとおり」
「あんれま!」
 客の爺様と蕎麦屋の二人がこれでもかとばかりに目を丸くして驚いた。
「逃げ水様、つかめーちまっただか!?」訛りを抑え気味に爺様が驚く。
「捕まえたといいますか」
 山城がフラスコをつつきながら今までの経緯を説明した。つつくことに、逃げ水様とやらがぷるぷる震える。
「なんだかよ、それさ聞いてると、逃げ水様のほうから人間に会いに来たみてえだな」
 蕎麦屋の主人もフラスコをつついてみた。
「だどすっとよ、山でなんだかさ、あったんでねえがな?」
「んー……特に」
 爺様に聞かれ、水を汲みに言った本人の山城が答えた。
「逃げ水様はあ、何かあると逃げてくるんだどよ。そんでな……」
 爺様が言うには、水源や近くの山に何かがあると、逃げ水様が現れて教えてくれるということらしい。昔――爺様の、そのまた爺様が子供の頃は、水源近くにあるホコラまで村中みんなで上り、毎年この時期になると、逃げ水様がどこかに逃げてしまわないように、お祭りを開いていたらしい。
 今では誰も近づかなくなってしまったが。
「一応、明日水源の辺りを調べてみるか。二人とも、動ける服装で来てくれ」
 霧島が二人に指示する。水源により近づくには山道を徒歩で行かねばならない。
「ホコラは、湧き水に近くだつぅかっらよ、見つけたら拝んでこいな」
 爺様が山のほうをさす。その返す手でテーブルをさした。
「でな、蕎麦伸びっちまぁど」

III 【水源の先】
 翌日、蕎麦屋に行った三人組は、キャンプに行くような姿で七水研に現れ、先に伸びた「舗装道路の跡地」になってしまった山道を登り始めた。
 ちょっとした計測をするための商売道具と、逃げ水様の欠片を入れたフラスコなどを、リュックサックに小分けして、三人で背負っている。
「所長は、この先行ったことあるんすか?」
「何度か行ったが、一時間も行かずに戻ってきた。一応歩ける山道が延々続いていて、杉が多目の雑木林に囲まれてるだけだからな。ま、季節ごとの花や、紅葉とかを見に行っただけだよ」
 喋りながら、三人はざくざくと音を立てて上っていた。
 足元は半ば風化した舗装路で、その上に落ち葉や木の根っこなどが散在しており、何処まで道路で山の一部なのか入り混じってよく分からない。
「この道って、何だったんでしょうね。検索しても、七水研の前に通じてることしかわからないっす」
 ただ、これがかつて広くて立派な道路として整備されていたらしいことは確かだ。
 だとすると、七水研は、この道路のほんの途中にしか過ぎない。
「お祭りのために作った道だったのかな」
 そんなことを考えながら山城は山道を登り続けた。
「ところで、所長はホコラの場所が分かるのですか」
 ふと、望月が訊いた。
「湧き水までは何度か行きましたが、何も無かったようでしたので」
「実は、俺もホコラなんて見たことがない。水源の湧き水までは何度も行ってるが、回りを探検するってことは無かったんでね」
 そして、七水研から二十分ばかり歩いたところに分かれ道があり、細いほうの先に水源の湧き水があった。
 七水研で道と湧き水の周りを草刈など手入れをしているが、周囲は基本的に雑木林であり、下草がぼさぼさと生えている。
「いつもどおりっすね」
 洞穴と泉とアイノコみたいな傾斜の穴から、澄んで冷たい水が、とめどなく湧き出していた。
 その水は川になって、七水研の横を通って里へ流れていく。
「手分けして探すとしよう。各自携帯端末の衛星監視と、統合センサーをつけておくように」
 霧島は指示すると、リュックから手のひらサイズの携帯端末と、首から下げるタイプの拳骨のような統合センサーを取り出し、両者を繋いだ。
 そして、アテもなく適当に山を歩き始めた。
「じゃ、僕も」
「気をつけてね」
 残る二人も、わかれて歩き始めた。
「なあ、逃げ水様よ。ホコラはどっちなんだ?」
 山城はふと持ち歩いていたフラスコを取り出し、なんとなしに話しかけてみた。
 もちろん返事はない。
「あはは……喋るわけないか。――ん?」
 いつもフラスコの真ん中に浮いていた水が、かなり隅っこに偏っていた。
「そっちへ行けってことかな。いや、逃げ水様っていうくらいだから」
 山城が中の水が寄っているのと逆方向を調べると、概ね、山の反対側だった。
「ちょっと、遠いな」
 ざっと携帯端末で地図を確認する。このまま反対側まで歩いたら、一時間以上かかりそうだった。
 このまま逸れてしまうのも困るから、一度集合しようと霧島にメッセージを飛ばす。
“了解、そこで待て”
 すぐに返信があり、ほどなくして藪の中から望月とともに霧島が現れた。
「ふむ。その辺りなら、一度道に出てからのほうが行きやすそうだ。あんな道でも、雑木林を突き進むよりはましだからな」
 携帯端末の地図を見て、霧島は一度道に戻るべきと判断した。歩いたことがあればこその判断だ。

 端末の画面、コンパス、それとフラスコの水を頼りに、進むほどに壊れ方の激しくなる道を行くこと一時間近く。雑木林をらぐいと見上げたところになにやら人工物があるのが見えた。
「あれがホコラかな」
 フラスコの水は、丁度逆側によっている。よほど行きたくないのか、フラスコの壁にレンズのようになって張り付いていた。
「ごめんなさい、逃げ水様」
 山城はフラスコの水に祈るように言うと、雑木林の斜面を登り始めた。
 直後、「山城君、ストップ!」と、後ろから望月が声をかけた。
「どうしました?」
「警告出てるわよ。端末の画面見て」
 山城が「警告?」と携帯端末を手にして見ると、大きな三角の真ん中に「!」が表示されていた。
 なんだろう、と「!」をタップすると、画面に“放射線注意”という文字が現れた。
 値を見る限りさして危険な状況ではないが、自然のものとしては異様に高い状態だった。
「所長! やばいっすか?」
「端末の積算計を起動しろ。黄色になるまでに引き返せ!」
「わかりました~!」
 大きく声を上げると、山城はそのままずかずか上っていってしまった。
「さ、俺たちも行くぞ」
「行くぞって、放射線が検出されてるんですよ!」
「三日居てもロケットで軌道基地へ行くのの半分も浴びない量だ。心配無用」
「えー、待ってよ!」
 残る二人も山城を追いかける。
 そして十五メートルばかり上ったところで、立ち尽くす山城に追いついた。
「ホコラ、っすね」
「ああ、ホコラだ」
「いや、違うでわよ」
 水源側からは見えないこの場所の山肌が半分えぐられており、分厚い金属の扉で閉ざされた大きなトンネルの入り口がそこにあった。
 トンネルは恐ろしく古そうで、扉もあちこちが錆び付いている。
 携帯端末をかざしてみると、その扉の一部が劣化して穴が開き、強目の放射線を出しているのが分かった。
「とりあえず、拝んで、写真とって帰るか」
 立ち尽くす山城の肩を霧島がぽんとたたく。
「あ、はい」
「帰りに、湧き水の放射線計っていく?」
「……いつもの水質検査に、放射線も入ってますよ。昨日も異常なしです」
「今のところ影響無しだな。さて、拝もう」
 三人は、目の前のトンネルを「ホコラ」ということにして手を合わせると、その場を立ち去った。
 そのとき、あれほど寄っていたフラスコの水が真ん中に戻っていたことには、誰も気がつかなかった。

【伝承】
 その日は七水研に戻ってすぐに浴びた放射線量と、残留放射性物質についてチェックしたが、自然の放射線を精々二週間分程度まとめて浴びた程度だった。
「モノがモノだけに、俺のほうから報告書を本部に出しておく。出し終わったら、また蕎麦食いにいこうか」
「また僕が運転っすか?」
 蕎麦屋に行く、イコール飲みに行く、である。

 夕方、蕎麦屋に着くと、昨日の爺様が来ていた。
「いんや、今日も来ると思っただよ」
 爺様がイラッシャイマセよりも先に声をかけてくる。
 戸惑い気味に「あ、どうも」と霧島が返す。
「山のホコラさ行くってことだでな、役場さ行って調べただぁよ」
 爺様は、途中まで食ったトロロ蕎麦を脇に寄せて、少々大きな携帯端末をテーブルに平置きした。
「じっちゃん、注文とってからにしておくれ」
 オカミサンが現れ、隣のテーブルに麦茶を置いていく。
「ザル蕎麦三つ」
 すかさず霧島が答え、「一つ大盛り」と山城が付け加えた。
「んじゃあ、茹で上がるまでに、ちぃと話を聞いてけれ」
 端末のスイッチが入れられ、トントンと何箇所かタップすると、七水研のある山の立体映像が、平置きした端末を土台にして浮かび上がった。
「ココが湧き水、コレが道。ここいらが、七水研」
 割り箸を使って、爺様が場所を指し示していく。
「ほんでもって、ここらがホコラ」
 ぐるっと山の映像を回転させて、さっきトンネルがあった辺りを指した。
「ここが何だったか、つぅとな」
 と言ったところで、その割り箸で爺様が蕎麦をすすって一息。
「何だったんすかね」
「今は違うがな、昔は核分裂で電気を作っててな、それがまたこっぴどく事故ったんだとよ。そンときの危ねえゴミを、人がイネエこの山ん中さトンネル掘って埋めたんだと」
「うわぁ……ありえないわ」
「んだな。それから暫くして、ゴミをきちっと片付けるやり方が出来たんでな、山から掘り出して片付けなおしてよぉ、掘ったり埋めたりした時の穴っこが、ホコラなんだと」
 もう一度端末をタップすると、第一次、第二次と放射性廃棄物の処理工程の資料が映し出された。
 一度は最終処分場として廃棄が始まったが、途中でより良い処理方法が開発され、再び取り出されてそちらに持って行ったらしい。
「んだども、どうしても少しばっかり残りカスがあってな。それが出てきてないか毎年持ち回りで見に行ってたのが、いつの間にかお祭りになって、ほんでもっていつの間にか廃れちまったわけだ」
「なるほど。そういうことでしたか」と、霧島。
「地上で核分裂発電なんかしてた時代があったのね。今だって、タダで放射能除去処理出来るわけじゃないのに」
「除去方法の確立前に核分裂使ってたこと自体驚き……って、事故って、あの、日本史で習った――」
 山城が最後まで言い切る前に、「おまちどうさん」と茹で上がったザル蕎麦がテーブルに届けられた。
「さあ、食うぞ。オカミサン、ビールもよろしく」
 霧島が割り箸をぱちんと割って蕎麦を食い始めた。
「あ、僕もいただきます!」
 
 ほろ酔い二人、腹いっぱい一人。「ごちそうさん」と蕎麦屋から出た。 
「おっと、いつのまにかメッセージだ」
 霧島が手にした携帯端末に、“第三軌道基地より、降下船で処理班を向かわせた”という本部からのメッセージが届いていた。
 星空を見上げ「あれっすかね」と、山城が天を指差す。
 一筋の光が、七水研のある山に下りてきた。
「今時の処理班が行けば核分裂の残りカス程度、すぐに片付くだろう。これで旨い蕎麦も安泰だ」
「茄子もっすね」
「ぬか漬け、そんなに気に入ったの?」
 
 人知れず、フラスコの中身はただの水になっていた。
 謎の「逃げ水様」の伝承と、本物のホコラを一つずつ追加して。
 翌年からは祭りも復活し、伝承の中で七水研は永く語られることになる。 
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